地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

実店舗の情報量でぺちゃんこになる

どうも。

実店舗って便利ですよね。通販みたいに待たなくていいし、うっかり再配達を頼むことになったときの罪悪感もないし(最近はamazonで置き配をしてくれるようになったからちょっと気持ちが楽になったが)。外に出ることにさえ成功すれば、あとは勝手に辿り着いているし、そこで買えばその日のうちに使えるようになる。これは通販にはなかなかない魅力だろう。

ヨドバシの通販がめちゃくちゃ早い配達をしてくれたりするらしいけど、私は通販を頼むときは再配達が怖いのもあってまとめて買いがちだからそこらへんの利便性をあまり享受したことはないけど、細かいものでも通販を利用するというひとにはきっとうれしいんだろう。細かいものがひとつやふたつほしいだけならおれはコンビニに行く。実際はコンビニに行くためだけに外に出るっていうのは至難の技だから、在宅勤務でなく普通に出勤していることを活かして、帰るついでに寄る。ここについては、在宅勤務じゃなくて助かってると思う。

しかし、おれは実店舗が苦手だ。便利なのは間違いないんだが、それとこれは別の話だ。特に大型店。大型店の方が明らかに便利だ。目当ての品を探したけどここにはなかった、しょんぼり……(´・_・`)ということになりにくいから、二度手間を避ける確率が上がる。在庫を調べてから入れ?そんなことをやると思うか?とにかく、大型店はまずほとんどのものがあるだろうという安心感がある。最高にありがたい。でもそれはつまり、大量に物があるということでもある。身長よりも高い埋め尽くされた陳列棚、視界を覆い尽くす大量の商品、大音量BGM、完全に騒がしい迷路だ。迷路で遊びたかったら大型店に行けばいいと思う。看板を見ないという縛りをつければ十分に機能するはずだ。

大型店(と言いつつ、実はそんなに大きくない店でも同じ感覚になってしまうんだが)に行くと目的を忘れる。何を買おうとしていたのか、そのためには地図上のどこに向かえばいいのか、地図はどこにあるのか、入る前に用意していたことすべてが頭から抜ける。絶対に最短ルートで買い物を終えてとっとと家に帰るぞ、と意気込んで入店するのに、結局1時間くらい迷ってからやっと出てくる。とにかくいろんなものが目に入る。目に入ると気になってしまう。近くに行って手にとって眺めてみる。最近はこんな商品もあるんだなあ、これは見た目がかわいいなあ、なんてふむふむとしてから棚に戻す。右に顔を向けると、また知らない商品がある。そこに行く。そんなことをしていると当然のように迷子になる。頼りになる店員さんは大体は他の客の相手をしているか、忙しそうにせかせか歩いている。とてもじゃないが話しかけられる様子ではない。ここで自分の目的を思い出し、なんとか命からがらエスカレーターを見つけ、地図も見つけ(地図とエスカレーターは大体セットで配置されている)、目的の地へ行き、目的のものをカゴに入れる。しかし、本当にこれでいいのか?もしかして、他にも買うべきものがあるんじゃないか?そして最初に見た商品をもう一度見に行く。触る。また次のところに行く。そうやって何周もしてしまう。ほしいものは今手に持ったこれだけだし、最終的にこれしか買わないことの方が多いのに。

そうだ。店の術中にハマっていると見せかけて、おれはしっかりほしいものだけを買って帰ることが多い。しっかりしているのだ。でもそのほしいもの、たったひとつのほしいもののためにおれは店を何周もぐるぐる回る。もちろん疲れ果てる。足の裏がじんじんする。お腹も空いてくるし、頭も少し痛くなってくる。もうずいぶんと自分より背の低いものを見ていない気がする。レジのカウンター、下に降りるためのエスカレーター、たまに見かける子どもたち。それくらいか。ようやく諦めて、レジで会計を済ませて外に出る。早く帰ろう。

服屋も、家電屋も、ドラッグストアも、ショッピングモールも、本屋も、祭りの屋台の群れも、更には店ではないがでかい公園なんかも、みんなこんな調子で歩きすぎては疲れる。目的のものにすぐに辿り着いて、すぐに金を払ってすぐに外に出られるようになれたらきっと楽だろうなあ。

この中だとたぶん本屋が一番きつい。いや、全部きついんだが、今回は本屋に絞る。本屋はBGMという点では良心的なことが多い。アニメのトレイラーが流れていることはあっても、どこにいても聞こえる音量ではないこが多い。しかし、一見単調な景色だが、よく見ると大量の文字がある。他でもない自分を見つけてもらうために丹精込めて選びぬかれた題名たちが一斉にこっちを向いてくる。恐怖だ。私はすべてを買うことはできないし、すべてに目を通すこともできない。とにかくどこを向いても題名が一斉に襲ってくる。平置きしているところでは表紙も襲ってくる。幼い頃は図書館によく通っていたが、よく通えていたなと思う。正直言ってきつい。今の私に余裕がないだけなのかもしれないが。

本といえば、私の家には小さな本棚がある。実はカラーボックスだけど、本棚と呼んでいる。三段あって、そのうち二段だけ本を詰めている。本棚だぞ。といっても、この前やっと真ん中の段が横一列に埋まったくらいだ。上の段はすっからかんだ。これから入っていく。上の段がすっからかんだからかぱっと見は問題ないが、近くに行くともうすでに多く感じる。上の段まで埋まったらきっと窮屈さを感じてしまうだろう。私はきっと自分の背よりも高い本棚を家に置けない。置いたら圧死してしまうのではないか。物理で圧死させられるんじゃなくて、なんかこう、いっぺんに目に入る情報量に圧死させられるというか。なぜ家で本屋にいるような感覚にならなければならないのか。おそらくだが、見上げるというのがつらい。きっとそんなにキャパシティがないのだろうと思う。何千、何万冊も家に保管している人たちを見ると、なんと余裕にあふれた人たちなんだろうといつも感心する。あのひとたちにとっては、あれくらいがむしろ心地よいのだろう。一冊も本がない状況の方が落ち着かないのかもしれない。私は家に何千冊もあったら卒倒してそうだ。置くにしても普段立ち入らない部屋に詰めておきたい。

本棚の上の段も埋まったら、そのとき残そうと思った一部を除いてすべて中古本として売ろうと思う。まっさらな本棚を再び手に入れるのだ。私の持てる冊数の上限はあの本棚によっている。これでいいのだと思う。もうちょっと幅の狭い本棚にしてもよかったかもなあとたまに思ったりする。

これは部屋に物をあまり増やしたくないのと通じているのかもしれない。と言ってもシンプルライフやらミニマリストやらからは程遠いくらいに物にあふれているのだが、少ない方だと言われたことがあるから、少なくとも多くはないのだと思う。

しかし、苦手だからと言って嫌いなわけではない。本当に嫌いならそれこそどんなに小さな買い物でも通販を使っているだろう。結局、場に流されているだけなのだ。店内ディスプレイを決めた人たちの策略にまんまとハマっているのだ。そして、苦手なくせに長時間居座ってしまうから疲れる。本当は買い物になんて向いていないのだろうな、と思いながらまた行って迷って情報の多さに蹂躙され足の裏を痛めながら帰る。正直やめたい。遊ぶのに向いてないんだと思うし、たぶん本当は遊ぼうとしない方がいいんだろう。はしゃいで疲れて不機嫌になって一緒にいてくれている人に迷惑をかけて。最悪だ。嫌になってきた。

情報量への耐荷重が低くてつれえという話になった。でもおかげで部屋に物があふれずに済んでいるのかもしれない。じゃあ、まあいいか。物が少ない方が掃除しやすいし。

では。