高校のときに読んだ小説を読み返した
伊藤計劃の『虐殺器官』を読んだ高校生の私はえらく感銘を受けた。『ハーモニー』も読んだのだけど、前者のほうが衝撃度合いが強かった。
以来、「好きな小説は?」と問われれば「虐殺器官」、「好きな小説がは?」と問われれば「伊藤計劃」と答えるようにしていた。中身をほとんど忘れ去ってからも。
それでいいのか? 全作品を読んだわけではない作家のことを好きだというのはべつにいいと思うが、中身を忘れた小説のタイトルを延々と「好きな小説」として使いまわしていいのか?
不安になってきた。
ということで、およそ8年ぶり(合ってるか?)に『虐殺器官』を再読した。
再読した感想。
「高校生の私はたしかに好きだっただろうな」
……いや、あの、もちろん今読んでもわくわくする話だったしおもしろかった。だが、文体がなんだかしっくりこない。なんかちがう。なんかこう……なんだろう……悩める若者感がつよいというか……いや、そりゃ主人公は実際悩める若者(30代だったような気もするが)だし、全然不思議ではないのだけど。なんだろう……今、西尾維新を読んでもたぶん同じ感覚を得るだろうなという感じがする。西尾維新も高校時代にわりかしはまっていた小説家だ。中学だったかもしれない。
一人称小説が苦手になったのか? そんなわけはない。今週、飛浩隆の『星窓 remixed version』を読んだばかりだが、それは好きだった。
私は飛浩隆作品が(最近は)好きらしい。『グラン・ヴァカンス』が美しすぎた。今読んでいる『自生の夢』に入っている作品からは今のところ『グラン・ヴァカンス』ほどの美しさへの衝撃はないんだけど、それでもやっぱり好きな文章だと思う。ところどころに『グラン・ヴァカンス』を彷彿とさせる要素がそれぞれの作品にあって、それもおもしろい。ひとりの小説家の作品を追うという行為にはこういう楽しみもあるのかもしれない。どっちが先に書かれたものなのか知らないけど。調べろ? はい……
ちなみに、これまたたぶん高校時代に読んだはずの夏目漱石の『夢十夜』も再読したところ、こちらについては変わらず「美」という感想を得た。安心した。次から好きな小説を問われたときは『夢十夜』とこたえるようにしようかな。
同じ本に『草枕』が入っていたからついでに読んだのだけど、こっちは最初こそ「これが芸術ってやつか」と感動していたのだが、だんだんそうでもない気がしていった。いちおう最後までは読めた。主人公が床屋で主人に頭をいいようにされる様子はかなり笑えた。いきなりギャグ小説が始まったのかと思った。あそこは好き。
夏目漱石の書いた長編があんまり好きじゃないのかもしれない。『吾輩は猫である』は途中で挫折した。『坊ちゃん』は最後まで読めた。でもおもしろかった気はするけどそこまで何かびっくりした記憶はない。『こころ』はきれいだと思うけど、教科書で読んだ記憶しかないから、全部を読んだらまた変わりそうだ。
もしかしたらあんまり再読はしないほうがいいのかもしれない。 今回、久しぶりに『虐殺器官』を読んで、正直ちょっとがっくりきてしまった。思い出が汚された気分だ。『夢十夜』は無事だったけど。
高校時代の私と今の私とは、当然の話だが、ちがう。ということはよくわかったので、まあ、よしとしよう。 でももう好きな小説に『虐殺器官』を挙げられなくなるのはちょっと寂しいかもしれない。
では。
うっかり舌を噛んだら痛すぎてしばらく飲料で空腹を凌ぐ羽目になった
舌を噛んだ。ごはんを食べていたらうっかり。なぜ噛んだのかよくわからないが、口の中にある味噌汁の具を噛もうとしたら勢いよく舌を噛んでいた。
結果、舌の上側の右側(右上の犬歯の方向)に軽いクレーターができた。舌も皮膚と同じ感じで皮(?)と中身(?)との2層になっているんだなあと思った。「舌を噛み切る」という表現をたまに見かけるが、あれだけ遠慮なく噛んでもたいしてえぐれなかったので、舌を噛み切るには相当な顎の力が必要なのだなと呑気に思った。いや、顎の力というよりは無意識の自制心を飛ばす必要があるのかもしれない。
これが先週の(たしか)土曜日の夜の話。その後は特に痛くなく、「舌にクレーターできたな」で終わっていた。
2日後の月曜の昼か夜らへん。そろそろ舌を噛んだことを忘れ出していた状態でいつも通りにごはんを食べようとしたところ、舌に激痛が走った。傷口がとんでもなく痛い。とりあえず口内炎パッチを貼りつけたが、何の意味もなかった。何かしらがそこに当たったらアウト。塩気の有無は関係ない。舌の右側にあるんだから左だけで噛めばなんとかなるやろと食事を続行したが無事に撃沈した。左だけで噛んでいても知らない間に食べものは右側に侵食しているし舌に当たっている。まあむりやり食べきったけど。なんか途中で麻痺してくるし。
困った。水を飲むときに傷口に水があたるだけでクソ痛い。しゃべろうとして舌が硬口蓋にくっついて離れるときも痛い。傷口の場所が場所なので 英語のエルの音みたいな歯茎にちょんと舌先を当てるような感じで動かせば実は回避できるが、そんな器用なことができたら苦労しない。ていうかもはやなにもしていなくても痛い。唾液がついても痛いし乾燥させても痛い(乾燥させたほうが気持ちマシではあった)。延々とツキツキツキツキしている。
これはもう咀嚼が必要な食べものはダメだと悟ったので、ゼリー飲料、ヨーグルト、ジュースなどを買った。こいつら思ったよりカロリー低いんですね。突然無理なダイエットを始めた気分になった。カロリーがたくさん取れそうな噛まなくていいやつというと私はアイスを思い浮かべるのだが、舌の傷に当てずにアイスを食べられる自信がなかったのでやめた。実際ヨーグルトで若干しんどかったのでたぶん無理。カロリーのある飲料って基本的に甘いんですね。塩がない。糖分過多を感じた。ストローのついたコーンスープを見つけたときは手を叩きそうになった。今思ったけど「一食置き換え」的な謳い文句の粉末のやつを買えばよかったのでは? 当時は思いつかなかった……
今こそ痛み止めを使うべきでは? とは何度も考えたが、そのたびに謎の楽観精神を発揮した私は「まあ寝て起きたらなんとかなるやろ」と痛み止めを飲まないまま過ごした。アホである。飲めよ。固形のごはんを食べられないと判断した時点で諦めろ。
職場でほぼしゃべる必要がなかったのもこの楽観思考を後押しする要因になった。出勤退勤と会議のときくらいしか声を発する必要がないので、たいして困らなかった。たくさんしゃべる仕事だったらさすがに迷うことなく痛み止めを飲んでいたと思う。
口内炎パッチを朝ごはん後と夜ごはん後の2回つけていたのだが(1日1〜2回と書いてあったので)、それが効いていたのか仕事中と寝るときはそこまで気にせずにいられた。朝起きた直後と仕事帰りくらいの時間帯は薬が切れるのか知らないが何もしなくても痛いモードに入って大変だった。帰り道は基本的に「いてえ〜」しか考えていなかった。
そんなこんなで木曜日がきたところで、なんと帰り道にあまり痛みを感じていないないことに気がついた。これは!!?? もしかして??!? とコンビニに寄ってあまり噛まなくてもなんとかなりそうなプチシュークリームの集まりを買っておそるおそる食べたところ、まあ痛いは痛いが許せる痛さだった。ちなみにシュークリームは皮が意外としっかりしていたのでそこそこ噛む必要があった。ロールケーキとかにするべきだったなと反省した。まあ食べられたからいいんですけど。
なぜ菓子にしたかというと塩を傷口につけるのが怖かったからです。体調不良とかでできる口内炎も塩をつけたらクソ痛いしな。口内炎ができているなかケチャップをつけたプライドポテトを食べて飛び跳ねたことを思い出す。ケチャップと口内炎の相性最悪じゃない? 塩単体よりダメな気がする。なんで?
ともかく私はおよそ3日ぶりに食べものを咀嚼した。咀嚼とはこんなにも達成感あふれる行為だったのか。冗談抜きで私は感動していた。
翌日はもうちょっと勇気を出してパンが柔らかそうなサンドイッチを買った。痛かったけどこれも食べられた。私は勝利を確信した。今はもう炊いた米を食べることに成功している。米は粒状だから傷口へのダメージが小麦粉をこねたものよりでかい気がしている。気のせいかもしれない。まあとにかく、クレーターはまだあるんだが(これ消えるのか?)痛みはもうほとんどない。ふつうに飲み食いができる。ふつうにしゃべれる。口内炎パッチももう貼ってない。私は乗り越えた。
ところで、食べものを咀嚼するときって、舌が口の中の食べものを歯に挟まれるはずのところに動かしてから噛んでるんですね。舌に傷をつくって初めて気がついた。たしかに、歯の位置は固定されているんだから、自由度の高い舌が運び込んでやらないとうまく噛めなさそうだ。思えば当然だが、なんだか新発見をした気分だ。
でももうこんなのは懲り懲りだ。次やったらちゃんと痛み止めを飲む。効果があるのか知らないけど。みんなも舌はなるべく噛まないようにしような。
自由研究2022(冬)
冬って言ってるけど今ってどっちかっていうと秋じゃない? となってきた。どうしよう。
今回は公開しました。おめでとう。クラッカー! クラッカー! クラッカー!
これでつくったものを説明する必要はなくなった。と思ったが、FizzBuzzって実は有名ではないのでは? という疑念に駆られたため、結局軽く紹介することになった。どうなんだ? こいつは有名なのか?
つくったもの
リズミックFizzBuzz | フリーゲーム投稿サイト unityroom
スマホで開くと残念なことになってウケました。対応させてもいいんだがそこまでやるか感もある。うーん……いいか。サボります。すまんな。
実は最後らへんまでタイトルは「FizzBuzz耐久」だったのだが、ゲームURLを決めるにあたり英語でなんと書けばいいか思いつかなかったのでこうなった。
どういうゲーム?
リズムにあわせてタイミングよくWASDキーを押してFizzBuzzを遊ぶゲーム。クリックでもいい。でもキー入力の方がやりやすいと思う。
この画像がすべてです。左がFizz、右がBuzz、上がFizzBuzz、下がそれ以外です。
苦しみたいひと向けに上下左右のガイドがないモードがあるんですけど、ガイドありで手が意識が追いつくよりも先に動くようになってから挑戦することをおすすめします。
FizzBuzzとは?
1、2、3…と数字を数え上げていく。その時、3の倍数なら数字の代わりにFizz、5の倍数ならBuzz、3と5の公倍数すなわち15の倍数ならFizzBuzzと言う遊び。
ということで、うまくいくと1、2、Fizz、3、4、Buzz、Fizz、7、…という感じになる。
動機
公開にこぎつけたい。
ストーリーもなにもないシンプルなゲームがつくりたい。
期間
自由研究2022(夏)が10/17投稿だから2か月弱
使ったもの
Unity2021.3.8.f1
得たもの
- プレイスキルが必要なゲームはつくってはならんという学び
いまだに自分が下手なのかゲームの実装がうまくいっていないのかちょっと自信がない。でも大体はできてると思う。ちなみに判定は前後9フレームを許容とし、秒あたり60フレームにしている。
- prefabがいかに大事かということ
もうどんなに小さなものでもいいから一旦prefab化するべきである。あまりに違うやつになったら解体して新しくprefab化。これがあるかないかでその後の微調整のめんどくささが決まる。マジで。これ、前も言ってなかった?
失ったもの
- 企画当初のかわいらしい見た目
もともとFizzBuzzにあわせてキャラクターが動くのかわいいじゃん!? からスタートしたんですけど、お絵描きするのがめんどくさくなっちまってな。原案、かわいかったな……旗の上げ下げをする予定でした。誰か代わりにつくってくれ。
- サムネをつくる気力
おしゃれなサムネをつくる気力などなかった。もう公開までこぎつけただけで大満足である。前回のも公開すればよかったって? あれはマジで黒歴史確定だったから嫌だ。
- 次の自由研究へのやる気
満足しちまったからな。そのうちまた手を動かすだろう。まあ冬(要協議)終わったし夏までなんもせんでええやろ。ワハハ。
感想
アニメーションを入れると急にそれっぽくなってテンション上がるしハッピーになる。
デザインなんもわからん。ので、色は3色までで目立たせたいとこ以外は地味にするという基本ルールっぽいやつを信じて配置した。なんかそれっぽくなった気がするのでまあいいか。
過去に音ゲーにハマっていた者ゆえ必然だが、ぶっちゃけゲームオーバーにならなければ無限に遊べる。まさに耐久。テストプレイで手が止まらなくて若干焦った。
感覚的に拍を刻む音がちょっと遅れて聞こえたから(たしか)5フレーム早めに鳴らすようにしてみたけど、どうだろう。わからない。わからないことしかない。
ゲーム実行用のクラスがえらい長くなって大変なことになった。分けろよとは何度も思ったが、分けたらそれはそれでめんどくさくなりそうだったから分けなかった。500行弱コードの完成である。今回のスクリプト数は5です。前のノベルゲーなんて10近くあったのに。うろ覚えだがそれくらいの圧はあった。
睡眠時間は意外と今回は削られなかった。嘘、最初はわりと削ったけど微調整段階に入ってからはどちらかというとモチベとの闘いだった。この記事もゲーム公開してから1週間経過している。通勤中に文字だけ打っていたがスクショはPCをつけないと貼れないから先延ばしにしていた。
さいごに
今回もCoroutineとの友好レベルをひたすら上げるイベントだった。とはいえ前回の試行錯誤があったのでわりかしスムーズに進んだと思う。
とにかく公開する気になれてよかった。満足した。スクワットしている人に飲み物を差し出すだけのゲームとかも考えてたんですけどどうしよう。そのうちつくるか? やる気が起きたらな。ていうか誰かつくってください。スクワットしている人を労ってください。
自由研究2022(夏)
夏の中盤ごろから急にやる気を出して始まった自由研究がついに終わった。というわけで、私の夏は今日をもって終了です。今日から秋です。よかった、年を越せそうだ。
さて、さっそくだがなにを書けばいいのかわからない。公開さえできてしまえば「完成品はこちらです →URL(ドヤ!)」でなにもかもを終えることができたのだが、残念ながら公開しないことになったから、ここでつらつらとなにか書かないと本当に日の目を見ないブツになってしまった。おお、かわいそうに……
自由研究を始めたときは最後に解説記事をつくるぞというつもりでいたが、冷静に考えて自由研究の解説記事とはなんだ。さすがに Unity のインストールから解説したくないし、書いたコードをすべて解説する気もない。とりあえずそれっぽい見出しを並べてそれっぽくしてみる。
- 自由研究の概要と感想
- 動機
- 期間
- できたもの
- 使ったもの
- 失ったもの
- 得たもの
- なぜ公開しないことにした?
- やってみた感想
- さいごに
- おまけ(本題)
- スクショ祭り
- コード置き場
自由研究の概要と感想
動機
ノベルゲームをつくってみたい!
自分の脳内から出てきたキャラクターたちがキャッキャとおしゃべりしているのを眺めたい!
期間
- 8月初旬?~10/17
Unity プロジェクトの作成日が8/28だったから、たぶん8月初旬ごろにはなんかやるぞという気になっていたと思う。
できたもの
キャラ立ち絵なし
謎のマップ切り替え機能と探索要素
WHY...
ちなみに一番最初は登場人物4人で舞台は遊園地だったのだが、これは完成する前に絶対に手が止まると確信したので、規模を縮めて登場人物2人で舞台も1部屋だけで済むようにした。おかげで完成(仮)まで漕ぎつけることができた。
使ったもの
- Unity2021.3.8.f1
始めたときに一番新しい安定版がこれだった。今だと2022があるっぽい。なぜ Unity か? これしか知らなかったから。
なぜ VisualStudio にしなかった? VScode のほうがなじみがあったから。最初にちょっと設定すれば普通に使える。完璧に予測とか補完とかしてほしいなら VisualStudio になるのかもしれないが、別にそこまで求めていなかったので特に不満はなかった。Coroutine を使うときに yield がないぞと叱ってくれるだけで十分だ。
失ったもの
睡眠時間(今日からはたくさん寝るぞ)
黒歴史をつくる機会
ゲーム制作への恐怖心
得たもの
ノベルゲームどころか2D脱出ゲームくらいならつくれるな、という自信
まあそこそこ Unity 触れるな、という自信
意外と2か月近くは続けることができるんだな、という自分への信頼
なぜ公開しないことにした?
「あ、これはもうこれで終わりだ」と急にすとんと来た
一応、遊べなくはない代物にはなっていると思うが、それはそうと公開する気になれなかった。正直昨日くらいまではせっかくここまでつくったのだから出来はどうであれ公開してもいいのでは? と迷っていた。
やってみた感想
実装については、ぶっちゃけ、ひたすら Coroutine とジリジリ仲良くなる日々だった。いかに Coroutine のことを理解し、うまく使いこなすかが終盤のほとんどを占めていた。物の表示非表示とかは SetActive() とか .enabled とかでなんとかなるしな。
当たり前だがやはり公式ドキュメントは最高。公式ドキュメントにすべてが書いてある。それでもうまいこと思いつかないときはブログ記事とか質問サイトとかを探す。この流れで大体なんでも解決する。
さいごに
実はちょっとこれならさくっとつくれるし(本当に?)つくった後に公開してもいいかな(本当に?)という案がひとつ浮かんでいる。マジでしょうもないやつ。つくりてえ。これを冬の自由研究にしてやろうか。いけるかな。年を越せなかったらどうしよう。
家に帰ればPCを開いてなにかしら作業をし、頻繁にやめ時を見失っては睡眠時間を削っていた。なかなか感動的なことだ。正直ちゃんと寝てほしかった。今日はこれさえ終わらせたらとっとと寝てくれという意味を込めて、全体のタスクリストとは別に「今日やることリスト」をつくっていたのだが、なんの役にも立たなかった。タスクが終わっても次のタスクに手を出して延々と作業をしそうになっていた。
しかも、私は毎日元気に出社している社会人だが、通勤で電車に揺られている間はひたすらゲームをどういじるかとか、昨日詰まった箇所はどうやったら実装できそうかとかそんなことをスマホでメモしていた。ざっくり言うと企画・ストーリー作成は通勤中に進め、家ではUnity実装にあてていた。
え? めちゃくちゃやる気に満ち溢れているじゃないか。びっくりした。誰だ、おまえ。
もちろん、さすがに四六時中自由研究にかかりっぱなしになっていたわけではない。ふつうに遊びに出かけるし、やりたくねえなあと思ったときは素直に動画を眺めたりしていた。最近は自由研究というつぶやく対象ができたからか twitter にもよく出入りするようになっていた。おかげで久しぶりにtwitterを眺める日々を得ている。懐かしい。TLのみんな、これからも健やかに元気でな。
おまけ(本題)
ここから先はスクショとなんとなく気に入っているコードの紹介をする。気になるひとはどうぞ。
続きを読む現実の濾過やら加工やら
しゃべったり日々を過ごしたりするだけでうまいこと消化できるひととできないひとがいると思っている。
そうして、消化できないひとが創作に走るんじゃないか。あふれてどうしようもなくなった現実をしかしそのまま垂れ流しにすることはできず、仕方がないから自分なりに加工して世に放り出すのである。
ただ、ほめられるためとか、なにかを伝えるための手段として創作をするひとも当然いるだろうから、一概にこうは言えないし、おれは両者の見分けがつかない。すてきなすげー作品を見せてくれるのなら動機がなんだってかまわない。すげー作品をいつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
しかし、消化できているうえで創作もできるひととなると、めちゃくちゃすごいな。いや、マジで。ものすごく器用に生きているように感じる。現実そのままの摂取でなにも問題ないのに、さらにそこからなにか見たことないし勝手に生えてくるわけでもないものをそこそこの規模で生み出すわけだろ。燃費最強か?
で、もし創作を生業にするなら、ほめられるためとかなにかを伝えるために創作することができるひとのほうが向いているような気がしている。そのための努力ができるってことだろ。
おれのこの吐露はちがう。申し訳ないがほめられたいとかなにかを伝えたいとかでやってない。こうしたほうが読みやすいと言われれば、なるほどたしかにと取り入れはするが、気に入らなかったら取り入れない。おれは本職クリエイターにはなれないと思う。なったらたぶん病むしな。
じゃどうして公開するんだ? やっぱりほめられたいのかもしれない。これは自覚なし。それはともかく、見てもらいたいのかもしれない。誰かがこれをうっかり読んでうっかりちょっとでも影響を受けてしまえばいい、とか思っているのは自覚している。ウワッ、下心ありまくりじゃないか。めんどくせえな。
創作物の摂取、一定量を摂取すると自分もなにかつくりたくなる、この循環。
創作に疲れたらまた摂取、摂取、摂取、そうこうしているうちに摂取に疲れてなにか吐き出す。おれは蚕だったのか? きれいな糸を吐いていたらそのうち熱湯に突っ込まれてなにかの素材にされてしまうかもしれない。コワ。創作がうまくなくてよかった。
ブログは摂取した生活を吐き出す行為だ。これはTwitterにも言える。おれはやっていないけど、InstagramとかFacebookとかもそうなんじゃないか。最近だとTikTokとかもそうなのかな? これはマジで触っていないので文字通りなにもわからない。
つまりブログやTwitterは生活感想文である。なにかしらの現実に対して思ったあれこれをくっつけている。
と言いつつ、脚色を加えて、生活すらも創作物として世に出すなんてよくある話だし、こんなぼやぼやと生活感想文のつもりでやっているのは実はおれだけなのかもしれない。え? どうしよう、そうだったら。コワ……もうインターネットどころか他者のなにもかもを信じられなくなってしまう……
創作はなんだ? 感覚的には排泄がかなり近いんだが、排泄っていうとなんかちょっと汚そうだよな(私だけ?)。なにかうまい言い方はないのかな。排泄物を加工するって、そんな、肥料じゃないんだから。でもあと嘔吐くらいしか出てこない。困ったな。おれにとっての創作ってなんなんだ。急に心配になってきた。なんかもっとこう……涙とか……? 涙でお願いします。
ところで、ひとにリクエストしてなにかをつくってもらうのもひとつの創作だと思う。自分の好きなものを少しでも現実に増やしたいというささやかな願いだ。自分の好きなものがちょっとでも増えた現実はきっと少しはすてきなものになっているはずだ。でもやりすぎには注意だな。同担拒否ならぬ同担強制になってしまう。
タイトルを見返して「濾過」という単語をまったく使っていないことに気がついた。おいおい。「加工」よりも「濾過」のほうがしっくりきていたというのに、なぜ「加工」ばかり使うんだ。「加工」のほうが使いやすいからか? そうですね。
今までさんざん創作創作と言ってきたが、なんかこう、なにを食ってたらそれ思いつくんだ? 的なあれこれはここに入れていいんじゃないか。全力で加工していけ。ただしあんまりまわりにでかでかと被害を与えなさそうな範囲にとどめてくれるとうれしい。チキンな小心者ゆえ安心して暮らしたいので。
ええと、つまり、おれたちは現実を濾過して生きているんだとおれは思う。それで、濾過しきれなくて溜まった現実をなんとか吐き出す。
それは忘却によって解決されることもままあるんだけど、受け取った現実そのものに近い形で他者と共有したり、創作(空想、妄想、想像、もはや形にしなくてもいいんじゃないか)という摂取したものからかけ離れたものに変えたりしてなんとか自分が埋葬されないようにやりくりしているんじゃないか。
最近はそう思っている。またそのうち変わるんだろうな、ワハハ。そういえば地味インナーカラーはすでに飽きて放置しているんですけど、外を歩いていると意外に地味インナーカラーのひとを見かけることに気がつくようになったので、ひとつ、見えるものが増えた気分になって満悦している。
人工知能はどこからひとりとして扱われるんだろうか
小説「電気じかけのクジラは歌う」(逸木裕)を読んでからというもの、人工知能による創作、人工知能はどこからひとりとして扱われるんだろうということがたまに気になっている。「人工知能による創作」っていう言い方が、もうすでに人工知能をひとりの作者として扱っている。
テーマを入力したらそれっぽい画像をつくってくれるサービスからつくられた画像を共有するツイートをちょくちょく見かけた。あれを使っているひとたちは、基本的にあのサービスそのものをひとりの作者として見ているように感じる。
しかし、人工知能を作者として扱う必要はそもそもあるのか。人工、というのだし、あくまでイラストソフトと同じ扱いでもいいのではないか。つまり、人間がなにかをつくるための補助をする道具という扱いだ。あの画像サービスに背景をかかせて、メイン部分を自分でかいている絵師さんを見かけて、すくなくとも私はけっこうしっくりきた。今も漫画の背景は3Dに任せることだってあるのだし、あれと似たようなものではないだろうか。まあ、3Dとちがってアングルをこちらから指定することはおそらくできないんだが。案のひとつとして使うとかよさそう。
この、人工知能を作者として扱うかどうかの基準がよくわかっていない。
人工の歌声であるVOCALOIDとかCeVIOとかは表記的にひとりの歌手として扱われることが多いと思うけど、じゃあ生の歌手を食い尽くすことが危惧されているかというとたぶんまったく危惧されていない。これは、たぶん、表面上はひとりの歌手として扱っているけど、あくまでソフトであるという理解が前提になっている気がする。
チェスのなんかすげー強いやつ(名前なんだっけか)はひとりのプレイヤーとして扱われていたと思う。まぁがっつり対戦相手として対峙するしな。しかし、ゲームって決められたルールの中でどれだけうまいこと動くかがそのまま勝敗につながるから、TRPGみたいな突発的に想定外の動きが出てきうるようなものでなければ、ルールの中で想定される場面ごとに一番いい動きができるように特化した人工プレイヤーがつよいのは、そりゃそうなんじゃないかって感じがする。だからだろうか、これも歌声と同じく、生の選手を食い散らかす未来は想定されていないと思う。
映画「イヴの時間」では農作物をつくるロボットの広告が出てくる。あれはロボットだけでつくられた農作物はいやだねみたいな広告内容だったので、きっとロボットをひとりの作者(農家)として扱っている。
ゲーム「Detroit: Become Human」で操作可能キャラの一人がキャンパスや壁になにか描いたりするけど、あれはがっつりアンドロイドをひとりの作者として見ていると思う。まあ最終的にアンドロイドの人権?問題になるしな。
おい、いつの間にか「人工知能」が「ロボット」とか「アンドロイド」とかに置き換わっているぞ。わかる。上に挙げたロボットたちはたぶん人工知能と呼ぶにふさわしい機能が入っているだろうから、大体同じもんを言っているんだと思って流してほしい。
いや、でも、全自動農作ロボットってどうなんだろう。作物ごとに空調とか水やりとかを一定にすれば必ず狙った結果になるのなら、いわゆる人工知能というほどの機能はなくても、設備さえあればいけそうな気がする。でも人間の農家から嫌われていた。すくなくとも広告では。
人間の仕事を食い散らかすかどうかが基準なのだろうか。
たしかに、人工歌手(って呼んでいいのか?)たちは少なくとも今のところはやっぱり機械くささが抜けないし、生の人間の歌とはあくまで別ジャンルのものとして地位を確立している。人間っぽい歌い方をさせても「人間っぽい」みたいな感想が出るだけのイメージがある。
ちなみに私はあの機械くささはとても好きだ。ループさせて聞くなら生の人間が歌っている曲よりも人工歌手の声のほうが疲れない気がしている。たぶんなにがしかの情報が抜けているのだろう。なんなのかわからないが。
農作物は消費する側に上限がある(生産するための場所も限りがある)から、人工農家が効率的に安定して生産できるなら人間の農家の仕事を食い潰しかねなさそう。
作曲というか音楽関係については、小説「電気じかけのクジラは歌う」では人工作曲家(とは作中では呼んでいない、と記憶している、今私が勝手にそう呼んでいるだけだ、注意されたし)は手間もお金もかからずにいい感じの曲をつくってくれるからってことで人間の作曲家がゴリゴリに潰されていっていたけど、絵画はどうなるんだろう。
絵画に歌声のような「機械っぽさ」はあらわれにくい。というかわからないんじゃないか。ぶっちゃけバランスが崩れてたら「パースの練習しなさい」とかになりそうだし。ぶっちゃけ、デッサン的な正確さを求めるなら、正確なバランスの3Dモデルをうまいこと配置して、狙った視点から切り取ったものが一番だろう。ということは、すくなくともそういう、正確さを求める仕事は食い潰されるかもしれない。
でも、3Dモデルをつくるのは現実のものならスキャナーがもうあるけど、うまく配置するのはたぶんいつまでも人間の仕事だ。実はすでにうまいこと配置してくれる人工モデラー(?)がいるのかもしれないけど、私はまだ知らない。いたらどうしよう。想像力の貧弱さをわらわれてしまうか。いや、それでいい。現実の実現力でぶん殴ってくれ。待ってる。
話を戻せ。絵だ、絵。いい感じの絵を提供してくれる人工知能はひとりの画家として扱われるか。
著作権の問題になるのだろうか。そういえば小説「電気じかけのクジラは歌う」ではどうなってたんだろう。Jingがつくった曲はどこが著作権を持つんだろう。素直に考えたらそれをつくらせたひととか組織になるんだろうけど。いや、それしかないな。やっぱ著作権はそこまで重要じゃないな。なしなし。
わからん。ここまでうだうだ書いてなにも決まらなかった。もともと人間が手作業でやっていたことが全自動になったらひとりとして扱われる、みたいな感じってことでいいか? でもそれだけだとRPAも入っちゃわないか? 困ったな。
ひとが集まってつくっていたものがひとつの手にまとめられるのは、本当はいろんなひとが関わっているのにそのうちのひとりだけがヒーローになってすべてを担うやつを連想する。人間ひとりができることは限られているのにな。おれはトイレがなぜレバーを動かしたら水が流れてくれるのか知らないけど、でもトイレは使える。ちなみにこれは「知ってるつもり 無知の科学」(スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック)からのはずです。おもしろい本です。
漫画や小説だって、著作者の後ろには編集者とか校正者とか、直接の役割名がなくても謝辞にちょろっと名前が出てくるひととか、いろんなひとが関わっている。昔から名のある芸術作品も、最終的に作者の名前ばかり広まるけど、芸術家が孤独に殻に閉じこもってうんうん唸って作品を生み出すというのは稀で、むしろ創造のためのパートナー的な存在がいることが多いみたいな話も見た。つまりイカした芸術作品は、手を動かしたのはひとりかもしれんが裏に他者との共同作業が隠れているってことだ。アイデアの壁打ちなんかこれに近いんじゃないか。これは「創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで」(松本卓也)に書いてあった気がする。おもしろい本です。
いや、そもそも、疑問がわかりにくいのか? どこからひとりとして扱われるのかっていうよりも、どこから道具として見られなくなるのかと尋ねたほうがわかりやすい気がしてきた。
道具はどこから道具じゃなくなるのだろう。うわっ長くなりそうだ、やめだやめ。だれか考えてくれ。私は今度気が向いたら考える。では。
インナーカラーを入れたら鏡を見るのがちょっとだけ楽しくなった
数ヶ月前からインナーカラーを入れている。ブリーチはなし。明るさレベルでいうとどれくらいなんだろう。レベル7か8くらいだろうか。たぶんいわゆる暗髪の範疇だと思う。
ブリーチなしのインナーカラー? なぜまたそんな目立たないことを? と思われるかもしれないが、私にとってはこれくらいでちょうどいい。鮮やかな色を頭にかぶせる自分がどうしてもしっくりこなかった。いや、想像しただけだし、エイヤとやってみればいずれ慣れるというのもわかりきっているんだが。
アッ、えらそうに後付けしました。ブリーチがめんどくさいだけです。なぜそんな長時間を美容室で過ごさなければならないのか? 気乗りしません。
単体で見れば地味なヘアカラーなのかもしれないが、インナーカラーとなると話は別である。外側の地毛との対比で、案外明るく見える。「実は染めたんですけど、わかります?」とひとに訊いてみたところ「染めたなっていうのはわかるけど、言うか迷うレベル」という返答だった。要するに地味ってことだ。私が狙っていたのはまさにこのラインだったので、心からガッツポーズした。
インナーカラーは楽だ。なんといっても髪が伸びても根本が目立たない。美容室に行くのがめんどくさくなっても安心だ。
正直、インナーカラーに限らず、髪を染めたところで普段通りに過ごすぶんには自分になんの影響もない。私の髪の長さだと多少は視界の端に入りはするが、常時目に入るではない。髪の毛とは自分の視界に入らないところから生えているのだから当然である。じゃあなにが変わるのか。
インナーカラーを入れてから変わったことといえば、前よりも鏡を見るのがちょっと楽しくなったというところだろう。自撮りを続けたときはマイナスがゼロになったような感じだったが(うろ覚え)、こちらはプラスになっている。顔ではなく髪の毛なのだからそもそも話がちがうんだが、鏡を見るときの抵抗を薄めるという点においては自撮りよりお手軽かもしれん。
染まってない部分と染まった部分の境を見るのが楽しい。髪が黒以外の色になっているのもおもしろい。ブリーチしていないので茶色になるだけだが、私としてはこれで満足だ。がっつり色を入れたいひとはやはりブリーチするしかないと思う。そこは自分の好みと相談だ。
あと、ちょっとだけヤンチャしている気分になれる。髪を染めたくらいでそんな気分になれるのか気になるひとは一度やってみてほしい。わかりにくい程度に染めてやるのだ。やってる意味あるのか? 程度に染めてやるのだ。まさに自分のためである。
髪を染めたほうがオシャレだのなんだの散々もてはやしておきながら、しかし公的?には髪を染めているのはチャラいとか不誠実とかいうイメージがつきまとっている。ファッションでいうとカジュアルファッションのような扱いなのだろう。オシャレだけどフォーマルではないよね、という感じだ。でも白髪染めは許容されている。やむを得ず髪色が黒以外になったからだろうか。ああ、だから地毛が明るめのひとに対して黒く染めることをオススメする主張がまかりとおるのか。(さすがにもうこんな事案はないか? ないといいなぁ)
これは余談だが、黒髪で黒スーツのひとはペンギンカラーだなと感じる。白黒ならみんなペンギンに見えてしまうかもしれない。それはかわいい視界だな。ペンギンにぎゅうぎゅうされる通勤電車。ふむ、悪くないかもしれない。
とはいえ、これは今の勤務先がそういうのにゆるそうなところだから染めることができているというのはまちがいなくある。ぶっちゃけ、インナーカラーは暗色であっても暗色フルカラーより目立つと思う。人間は差異に敏感だ。暗色であっても地毛とはやはり色がちがうのだから、ありゃ染めてるなとすぐわかる。フルカラーならば根本が黒くなってきていない限りは暗色系ならバレないことも多々あると思うが、インナーカラーはたぶんもっとあっさりバレる。
だから、これは期間限定だ。そもそも私が次に美容室に行くときにまたカラーを頼む保証がない。始まった瞬間からすでに期間限定であることが確定している。なんてこった。いや、まあ、だいたいどれもそんなもんか。
アッあとこれは完全に私の好みの暴露なんだが、表と裏で色がちがうのがそもそも好きだ。パンプスで上(?)が黒色で靴底が赤色とか、バッグの外側と内側で生地の柄が違うとか。手持ちの靴だと靴底含めて全体的に黒色で中敷きだけビビッドめのピンクのやつがあるが、こういうのが好きっぽい。
ここまでインナーカラーではしゃいでいるサマを見せてきたが、これ、ショートヘアだったらどうすればいいんだろう。ショートでインナーカラーって可能なのか? もしかするとフルカラー以外の選択肢がないかもしれない。いや、なにか画期的な策があるかもしれない。美容師さんにぜひ相談してみてくれ。
ちなみに美容室で「ブリーチなしでインナーカラー入れたい」と言ったら、最初は「?」という反応だったが、ちょっと食い下がったらふつうにやってくれるので、遠慮なく食い下がりましょう。「染めたな〜って私がわかればいいっていうか! THE 自己満っていうか! ホント、私だけがわかればいいみたいな!」みたいな勢いでいけばいける。暗めの色だから2回目のときにどこまでが染まっている部分なのか美容師さんが区分けするのに苦労していた。いや、すみません、美容師さん、いつもありがとうございます。