地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

現実の濾過やら加工やら

しゃべったり日々を過ごしたりするだけでうまいこと消化できるひととできないひとがいると思っている。

そうして、消化できないひとが創作に走るんじゃないか。あふれてどうしようもなくなった現実をしかしそのまま垂れ流しにすることはできず、仕方がないから自分なりに加工して世に放り出すのである。

ただ、ほめられるためとか、なにかを伝えるための手段として創作をするひとも当然いるだろうから、一概にこうは言えないし、おれは両者の見分けがつかない。すてきなすげー作品を見せてくれるのなら動機がなんだってかまわない。すげー作品をいつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

しかし、消化できているうえで創作もできるひととなると、めちゃくちゃすごいな。いや、マジで。ものすごく器用に生きているように感じる。現実そのままの摂取でなにも問題ないのに、さらにそこからなにか見たことないし勝手に生えてくるわけでもないものをそこそこの規模で生み出すわけだろ。燃費最強か?

で、もし創作を生業にするなら、ほめられるためとかなにかを伝えるために創作することができるひとのほうが向いているような気がしている。そのための努力ができるってことだろ。

おれのこの吐露はちがう。申し訳ないがほめられたいとかなにかを伝えたいとかでやってない。こうしたほうが読みやすいと言われれば、なるほどたしかにと取り入れはするが、気に入らなかったら取り入れない。おれは本職クリエイターにはなれないと思う。なったらたぶん病むしな。

じゃどうして公開するんだ? やっぱりほめられたいのかもしれない。これは自覚なし。それはともかく、見てもらいたいのかもしれない。誰かがこれをうっかり読んでうっかりちょっとでも影響を受けてしまえばいい、とか思っているのは自覚している。ウワッ、下心ありまくりじゃないか。めんどくせえな。

創作物の摂取、一定量を摂取すると自分もなにかつくりたくなる、この循環。

創作に疲れたらまた摂取、摂取、摂取、そうこうしているうちに摂取に疲れてなにか吐き出す。おれは蚕だったのか? きれいな糸を吐いていたらそのうち熱湯に突っ込まれてなにかの素材にされてしまうかもしれない。コワ。創作がうまくなくてよかった。

ブログは摂取した生活を吐き出す行為だ。これはTwitterにも言える。おれはやっていないけど、InstagramとかFacebookとかもそうなんじゃないか。最近だとTikTokとかもそうなのかな? これはマジで触っていないので文字通りなにもわからない。

つまりブログやTwitterは生活感想文である。なにかしらの現実に対して思ったあれこれをくっつけている。

と言いつつ、脚色を加えて、生活すらも創作物として世に出すなんてよくある話だし、こんなぼやぼやと生活感想文のつもりでやっているのは実はおれだけなのかもしれない。え? どうしよう、そうだったら。コワ……もうインターネットどころか他者のなにもかもを信じられなくなってしまう……

創作はなんだ? 感覚的には排泄がかなり近いんだが、排泄っていうとなんかちょっと汚そうだよな(私だけ?)。なにかうまい言い方はないのかな。排泄物を加工するって、そんな、肥料じゃないんだから。でもあと嘔吐くらいしか出てこない。困ったな。おれにとっての創作ってなんなんだ。急に心配になってきた。なんかもっとこう……涙とか……? 涙でお願いします。

ところで、ひとにリクエストしてなにかをつくってもらうのもひとつの創作だと思う。自分の好きなものを少しでも現実に増やしたいというささやかな願いだ。自分の好きなものがちょっとでも増えた現実はきっと少しはすてきなものになっているはずだ。でもやりすぎには注意だな。同担拒否ならぬ同担強制になってしまう。

タイトルを見返して「濾過」という単語をまったく使っていないことに気がついた。おいおい。「加工」よりも「濾過」のほうがしっくりきていたというのに、なぜ「加工」ばかり使うんだ。「加工」のほうが使いやすいからか? そうですね。

今までさんざん創作創作と言ってきたが、なんかこう、なにを食ってたらそれ思いつくんだ? 的なあれこれはここに入れていいんじゃないか。全力で加工していけ。ただしあんまりまわりにでかでかと被害を与えなさそうな範囲にとどめてくれるとうれしい。チキンな小心者ゆえ安心して暮らしたいので。

ええと、つまり、おれたちは現実を濾過して生きているんだとおれは思う。それで、濾過しきれなくて溜まった現実をなんとか吐き出す。

それは忘却によって解決されることもままあるんだけど、受け取った現実そのものに近い形で他者と共有したり、創作(空想、妄想、想像、もはや形にしなくてもいいんじゃないか)という摂取したものからかけ離れたものに変えたりしてなんとか自分が埋葬されないようにやりくりしているんじゃないか。

最近はそう思っている。またそのうち変わるんだろうな、ワハハ。そういえば地味インナーカラーはすでに飽きて放置しているんですけど、外を歩いていると意外に地味インナーカラーのひとを見かけることに気がつくようになったので、ひとつ、見えるものが増えた気分になって満悦している。