地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

高校のときに読んだ小説を読み返した

伊藤計劃の『虐殺器官』を読んだ高校生の私はえらく感銘を受けた。『ハーモニー』も読んだのだけど、前者のほうが衝撃度合いが強かった。

以来、「好きな小説は?」と問われれば「虐殺器官」、「好きな小説がは?」と問われれば「伊藤計劃」と答えるようにしていた。中身をほとんど忘れ去ってからも。

それでいいのか? 全作品を読んだわけではない作家のことを好きだというのはべつにいいと思うが、中身を忘れた小説のタイトルを延々と「好きな小説」として使いまわしていいのか?

不安になってきた。

ということで、およそ8年ぶり(合ってるか?)に『虐殺器官』を再読した。

再読した感想。

「高校生の私はたしかに好きだっただろうな」

……いや、あの、もちろん今読んでもわくわくする話だったしおもしろかった。だが、文体がなんだかしっくりこない。なんかちがう。なんかこう……なんだろう……悩める若者感がつよいというか……いや、そりゃ主人公は実際悩める若者(30代だったような気もするが)だし、全然不思議ではないのだけど。なんだろう……今、西尾維新を読んでもたぶん同じ感覚を得るだろうなという感じがする。西尾維新も高校時代にわりかしはまっていた小説家だ。中学だったかもしれない。

一人称小説が苦手になったのか? そんなわけはない。今週、飛浩隆の『星窓 remixed version』を読んだばかりだが、それは好きだった。

私は飛浩隆作品が(最近は)好きらしい。『グラン・ヴァカンス』が美しすぎた。今読んでいる『自生の夢』に入っている作品からは今のところ『グラン・ヴァカンス』ほどの美しさへの衝撃はないんだけど、それでもやっぱり好きな文章だと思う。ところどころに『グラン・ヴァカンス』を彷彿とさせる要素がそれぞれの作品にあって、それもおもしろい。ひとりの小説家の作品を追うという行為にはこういう楽しみもあるのかもしれない。どっちが先に書かれたものなのか知らないけど。調べろ? はい……

ちなみに、これまたたぶん高校時代に読んだはずの夏目漱石の『夢十夜』も再読したところ、こちらについては変わらず「美」という感想を得た。安心した。次から好きな小説を問われたときは『夢十夜』とこたえるようにしようかな。

同じ本に『草枕』が入っていたからついでに読んだのだけど、こっちは最初こそ「これが芸術ってやつか」と感動していたのだが、だんだんそうでもない気がしていった。いちおう最後までは読めた。主人公が床屋で主人に頭をいいようにされる様子はかなり笑えた。いきなりギャグ小説が始まったのかと思った。あそこは好き。

夏目漱石の書いた長編があんまり好きじゃないのかもしれない。『吾輩は猫である』は途中で挫折した。『坊ちゃん』は最後まで読めた。でもおもしろかった気はするけどそこまで何かびっくりした記憶はない。『こころ』はきれいだと思うけど、教科書で読んだ記憶しかないから、全部を読んだらまた変わりそうだ。

もしかしたらあんまり再読はしないほうがいいのかもしれない。 今回、久しぶりに『虐殺器官』を読んで、正直ちょっとがっくりきてしまった。思い出が汚された気分だ。『夢十夜』は無事だったけど。

高校時代の私と今の私とは、当然の話だが、ちがう。ということはよくわかったので、まあ、よしとしよう。 でももう好きな小説に『虐殺器官』を挙げられなくなるのはちょっと寂しいかもしれない。

では。