地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

マルチタスクできる人間うらやましいから始まる長文

マルチタスクができる人間、とてもうらやましい。おれはシングルタスクしかできない。練習したらできるようになるのかもしれないが、そこには途方もない時間がかかるのが目に見えている。それほどにはやる気がない。つまり、あれだ、英語ができないひとが英語ができるひとを見てうらやむものの自分で地道にがんばろうとはしない、あれみたいなノリだ。

マルチタスクとは何か。要するに複数の一連の行為を並行して行うことだ。五感をフル活用する感じだろう。ぶっちゃけると歩きながらガムを噛んだりイヤホンをつけて音楽を聞くなんてのも一種のマルチタスクだが、世間での「マルチタスク」はそんなレベルのものではない。本を読みながらニュースを聞くだとかそういうやつだ。……いや、すでにこの時点でおれは「マルチタスク」というワードにあほみたいな期待を抱いてしまっているのではないかという気がしてきた。しばし頭を抱える。

気を取り直す。おれはマルチタスクへの嫉妬を粛々とつづるためにテキストエディタと向き合っているのである。一体こいつと何時間を共にしたのだろう。そろそろマイハニーと呼んでもいいのではないか。いや、待て、戻れ、まずは、なぜマルチタスクに対してこれほど強い憧れを抱いたのかについて記憶を掘り起こす。

あれは小学生終盤だったか中学生序盤だったか、12年くらい前に効率的に動けるのはかっこいいぜブームが来た。あと、とんでも科学みたいなのもきた。速読、脳トレマルチタスク、限られた時間の中でいかに大量のタスクをこなすか、左利きは天才、自己啓発などなど。今思えばなんだそれという感じだが、当時のおれに「なんだそれ」と言い返せる知恵はなかった。まわりの大人たちは冷めた目で見ていたので、きっとまわりの大人たちはわかっていたのだろうと思う。そしておれは素直に巻き込まれた。

速読ができるようになったら図書館にある本を全部読めるのかなあなんてかわいらしい夢を描き、脳トレをすればもっと速い思考を手に入れられると信じ、マルチタスクは有能の証であると信じ、左手で文字を書けるようになれば自分も頭がよくなると思い、すばやく動けるようになれば一日でできることが増えてハッピーだし、自己啓発を信じれば成功できるのだと思った。この列挙からあなたが連想したように、もちろんスピリチュアルにもハマった。残念ながら、おれは根が現実主義だったようで、今はもう冷めてしまったが。

ブームだったので、もちろんマルチタスクが得意な同級生からはいろいろとマルチタスク生活の話を聞いた。ゲームをしながら家族と会話をする、音楽を聴きながらチャットをこなしてゲームをする、などなど。正直うらやましかった。おれはゲームを始めたら自分の足が痺れていることも気づかず、今口に含んでいるものの味もよくわからなくなるような子供だった。チャットや読書をしているときはまわりの音が聞こえなくなる。親とまともに話せやしない。

何か作業などをしているときに唐突に話しかけられると基本的にイラついた態度を取ってしまう。やめたいが、いまだにやめることはできていない。作業中なのに話しかけてしまうことは自分もよくあるのだが、それに対して一切怒ってこないひとはたくさんいた。というか、そっちの方が多数派だった。みんな穏やかな気質を持っているのだと思った。そしておれはわがままで自分のことしか考えられないやつなのだとその度に落ち込んだ。でも思えば、これは要するに余裕の差ではないか。ひとつの作業に集中しててもまだ余裕があるひとと、それだけで余裕がなくなるひとの差ではないか。……と、自分に都合の良い仮説を立てようとしている。いやなやつだ。いやだなあ。

いや、今思いついたが、もしかして彼らはタスクのパッケージ化がうまいのではないか。おれにとっては複数のタスクを、まとめてひとつのタスクとして扱っているのではないか。なんとも器用な話だ、うらやましい。

動きが遅いのも焦りと嫉妬に拍車をかけた。何度、親から「動きはゆっくりなのにえらくせっかちだよね」と言われたことか。走るのも食べるのも着替えるのも選ぶのも遅い。歩くのだけは、東京にいたおかげでちょっと速い。ただ、おれというやつだけが、この遅い身体の中でせかせか動こうとしているのである。

うらやんで当然ではないか。高速で教科書を読めればその分回数を回せて少ない時間でより高得点を狙えるわけだし、あれやこれやに興味を持っても時間が足りないから諦めるなんてこともしなくて済む。興味が分散しがちだったから、本当に魅力的だった。一度に複数のことができて、しかも高速で進められるとなれば、それって最高に充実した生活じゃないか。おれだって実況動画見たいしアニメ見たい本も読みたい、絵も描きたい散歩もしたい遊びに行きたい音楽も聴きたいプログラミングもしたい文章も書きたい。なんでもやりたいし、なんでも極めて、みんなにすごいと言ってもらいたかった。目立ちたかった。

でもだめだった。そもそもおれはとんでもなく怠惰だった。努力はできるだけしたくない。突然才能が降ってきてほしいと願いながらぐうすか寝る、しがない凡人だった。

ちなみに、目立ちたいは目立ちたいが、いざ目立つと今度は恥ずかしさが勝る。注目されているという自覚が羞恥心を生む。何がなんでも目立ちたいという欲望と、いざ目立ったときの恥ずかしさを比べた結果、おれは目立たない方向に進むことを選んだ。まあそれでも目立ちたがりはなくなってはくれないので、たまに率先して人前に立つこともあった。足がガクガク震える。声もしっかり出てくれない。声が震える。注目を集めてうれしいはずなのにえらく苦痛だった。目立つことに向いてないのだと悟った。

しかし、結局、これは適性の問題ではないか。身体のつくりは当然ちがう。今、もしマルチタスクができるひとがこれを読んでいるのならば、「何を言っているんだこいつは」と未知の生物を見る感覚になっているにちがいない。同じである。羨望さえ持たなければ、こっちから見たって「何を言っているんだこいつは」である。何をそんなせかせかと一度にふたつもみっつも作業を同時並行しているのだ。

ここでいうマルチタスク得意人間の側に立てるものは実はおれにもある。おれは生まれてからというもの関節が若干柔らかい。開脚して腹を床につけることは、痛いのは痛いが、そんなに苦ではない。自力でできなくても背中を押されれば誰でもできるものだと思っていた。でも体育の授業などでとんでもなく身体の硬いひとを見て衝撃を受けた。背中を押すと、胴体が前に倒れるのではなく、そのまま全身まるごと前に進んでしまうなんてことがあるのか。まるで腹の部分に見えないボールでも置いてあるかのようだった。正直、本当に何が起きてるのか最初わからなかった。金縛りにでもあっているのかと思った。身体が柔らかいことは硬いことよりも「よい」とされる空間だったので、おれは内心鼻高々だった。いやなやつだろ、なあ。人間くさいだろ。これがフィクションで美少女だったら、今頃すごく称賛されてただろうな。次元の違うひとたちから。

やがて、ひとはそれぞれいろんな身体を持ち、それぞれ得意不得意があることを学んだ。努力でなんとかできる部分もあるだろうが、適性がある人間が同等の努力をしたらもう全然かなわない。身体は平等ではない。

正直プログラミングをしながら歌を聞くのもだいぶきつい。知らないかつ穏やかな曲が一番いい。ジャズがいい。クラシックはたまに知ってる曲がくるからだめだ。歌は歌詞があるからだめだ。言葉を同時並行に処理できないのである。

いや、これをこのままマルチタスク・シングルタスクにも当てはめればいいじゃないか。おれはどう見てもシングルタスク派だ。ただそれだけじゃないか。というか、これが一番おれが救われる。マルチタスクができるように努力することを放棄していることを正当化できる。おれはとことん怠けたいから、勝手にこうなる。開き直りたいのである。おれはこれしかできないけど、これでいいじゃないか、と。そして嫉妬するのをやめたいのである。もっと気楽に生きたいだけなのだ。すてきなものについてすてきだなあとこぼし、楽しいことをして笑顔になっていたいのである。今こんなことしてていいのか、こんなにゆっくりしていていいのか、もっと他にやるべきことがあるのではないか、と何か得体の知れぬ焦燥感に追われていたくないだけなのだ。嫉妬は焦燥感を生むひとつの原因だと思っている。もちろんなくすことは不可能に近いだろうが、やり過ごす術を少しずつ身につけていきたい。なんというか夢を見過ぎなのはわかるんだが、穏やかに生きたい。

そういえば、速読がブームだった頃に、遅読をすすめる本があった。読むのが遅かったおれは当然かぶりついた。でもほしいものではなかった。じっくりすぎるほどじっくり、真剣に、一冊の本と向き合うことをすすめる本だった。おれはそういうのが苦手だ。遅く読むならこれだけじっくりやらないといけないのかと絶望した。読むのが遅いのに、おれはこんなにじっくり読めない。もう無理だ。でも最近やっとおれにとってちょうどいい読書の本を見かけた。うれしかった。本が読めるようになってきた。

これは全部、怠けたいがための正当化である。いいだろう、この正当化はそんなにまわりに迷惑をかけていない(と信じたい)。マルチタスクができなくても問題のない社会にはなっているし、おれがマルチタスクできなくて困るひとはまずいない。いたら、だれだよ、むしろ。名乗りをあげてほしい。

マルチタスクに憧れて、本を読みながら実況動画を流したりしたが、無理な話だった。片方に集中してもう片方の存在を忘れるのがオチだ。二回目だが、おれは言葉を並列に扱うことができない。最近、ついに諦めてジャズなどのあまり気にならないBGMをかけながら本を読んだりプログラミングをしたりするようになった。明らかにこっちの方がしっかり進んでいる。実況動画を見たくなったら、アイスでも食べながらじっくり見ればよい。

いやそれもマルチタスクじゃんと言われそうだが、まあ、実際その通りである。マルチタスクへの羨望が残っているのか、ひとつだけだと物足りないことが多々ある。「もったいない」という感情がどこかに残っている気もする。どうせやり始めたら聞いてないのにな。今もジャズのBGMを流しているが、正直今意識を向けるまで流していることを忘れていた。危うくタブレットの充電が切れるところだった。でも音が止まるとちゃんと気がつく。環境のひとつとしてとらえているのだろうか。

ぶっちゃけアイスを食べながら実況動画を見るときも、途中からアイスを口に運んではいるが味は全然わからなくなっていることが多々ある。環境になっているのかもしれない。要するに図と地の地である。でも、最初の、たった最初のひと口の感動のために、おれはアイスを買って食べているのである。その瞬間にしかおれにとってアイスの味はない。あとは冷たくてすぐ溶ける何かが舌に乗るだけだ。……ごはんを食べるときも、アニメとか見ないようにした方がいいんじゃないかという気がしてきた……見るけど……

ちなみにごはんのときに何かをする理由は、とにかく咀嚼回数が多いからである。本当は味を感じられるうち(おそらく3回ほど噛んだあたり)に飲み込むのが正解なのだろうが、3回噛んだくらいではどうしても飲み込めない。いや、可能ではあるが、舐めかけの飴をうっかり飲み込んだような苦しくて虚しい感覚になる。もっとたくさん噛まなければいけない。味がなくなっても噛み続ける。そのうち飲み込めるようになる。というわけで、さすがにつらいので何か他のこともやるようにしている。

壮大な自分語りだった。でも書いているうちにちょっとマルチタスクへの嫉妬は薄まった気がする。とか言って明日にはまた暴発しているかもしれないが、そのときはそのときである。しかも途中全然マルチタスク関係ないし。でも楽しかった。またやりたくなったらやろう。