地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

筋トレと読書って似てる気がするんだけど、なぜ筋トレは気楽で読書は悲しいんだろう(2)

ところが、読書は現実逃避になってくれない。常に、既にこの本を読んだことがあるひとや、この分野について自分よりずっと詳しいひとの影がちらつく。勉強もタスクも同じだ。今こんな低いレベルのものやってていいのかな、情けないな、前から努力してこなかったからサボってきたからこんなことになってるんだ自業自得だ、でも情けなくてつらいなあ。だいたいずっとこんな感じで進む。ずっとみじめ。別に、今ようやっと手を出したからって「今更だね」なんて言ってくるひとは(幸いなことに)まわりにいないのに、どうしても比べてしまう。

しかも本を読むのも妙に遅いもんだし、遅いからって焦って他のことと並行して進めようとすると結局どっちもなんにも進まないまま終わるし、もうどうしようもない。おれはもうあのひとたちに追いつけない。ずっと取り残されている。でも、じゃあ待ってもらったら満足なのかと言ったらそんなことはない。おれにかまわずどんどん進んでほしい。おれのことは、欲を言えばたまに振り返って、変な方向に進んでないか見てほしいけど、それ以外はむしろ無視してほしい。おれにかまってるせいで向こうが進むのが遅くなったら本当に申し訳ない。

で、「あのひとたち」とは誰だ。よくわからん。たぶんいろんなひとの印象が頭の中でごちゃごちゃになった結果生まれた集合体のことだと思う。これはAさんが読んだことがある本、Bさんが読んでた本、Cさんが既に読んでた本、とかなんかいろいろあって、「あのひとたち」とか「みんな」とかいう、それらすべての本を読み終わった集合体ができあがる。おれはそれに対して毎日震え上がっている。

たぶん勉強もそんなもんだと思う。分析哲学に詳しいDさん、音韻学に詳しいEさん、圏論に詳しいFさん、とかいろいろいる。それらがごちゃっとまとまって「みんな」とかになる。でも実際、なにかひとつに詳しいひとって他の分野の素養もそれなりにあったりするもんだからすごいよな。おれむりだ。

でもなぜこれが筋トレでは起こらないんだろう。これが不思議だ。筋トレだっておれよりがんばってるひとは大量にいる。一緒にやろうなんて動画出してるひとたちはみんなおれよりずっとすごい。なんでだろう。仮の答えを思いつかないまま書き始めて、書いてるうちにひらめくだろうと思ってたけど結局なんにもひらめかなかった。

強いていうなら向上心の問題かもしれない。おれは読書したり勉強したりして、もっと上にいきたい。(「上」ってなんだろう。)筋トレではそんなものはない。比べるものではないからだ。筋力や体力はひとそれぞれだ友人のGさんが昨日プッシュアップ100回やったからじゃあおれも張り切って100回やるぞ!とはならない。どう考えても無理だからだ。ちなみにこの前数えてないけどたぶん40回くらいやったところ無事に筋肉痛になりました。初心者らしく膝を床につけて。

そう、筋トレ続けられるようになったのは「数えなくてもいい」とわかったからという気もする。「この動画の時間は動いていよう」というだけで、あとはがんばって動くだけ。何回やったかはまったくわからない。これがよかったのかもしれない。前に買ったプリズナートレーニングは結局続かなかったけど、あれは数を数えるのが無理だったからじゃないか。でも書いてある心得はかなりためになったし買ってよかったと思ってる。

数を数えるということは、目標を生むことになる。これが合わなかったのかもしれない。「50回やろうって思ったのにバテてしまった、悲しい」が積み重なる。いや、目標を下げろよという話なんだが。でも回数より時間で区切った方がおれにはやりやすかった。これはおれが数えるのが下手なのが原因だと思うから無視してほしいんだが。きつくなったら残り時間は動きを小さめにやったりゆっくりやったり体勢を変えたりしてもいい、というのが合っていたみたいだ。やってみよう動画の中には数を数えないものがけっこうある。おかげで気楽に取り組めるようになったと思う。数えないということは、報告しにくいってことになるんだけど、これはどうしたらいいんだろうな。まあいいか。

これでいくと、読書のときも数えなかったらいいのかな。と思ったが、そもそも数えていないぞ。本を読むときに「今何ページ進んだな」とか覚えていない。読み始めたページすら忘れる。おい筋トレと同じじゃねえか、なんでこっちではこんなに悲しくなるんだ。

比較対象が身近にいるかどうかか?たしかにおれのまわりには本をよく読んだりよく勉強していたりするひとが多い。でも、筋トレしてたり運動してたりするひとも多い。運動系のサークルに入っていたから当然だろう。Twitterを開けばだいたい誰かが何kmか走っているし山に登っている。うーん、身近に比較対象がいるかは関係なさそうだ。

じゃあなんやねん!わけわかんなすぎてキレそう!筋トレの何がセーフで読書の何がアウトなんだ!

もしかしたら「いけそう」感が関係してるのかもしれない。ゆーてがんばったらおれもあの境地に達せるやろ、みたいな。がんばれば届くかもしれないところに届いていないからつらいのかもしれない。筋トレのトレーナーたちとかどう見ても無理だもんな。そこまでの気力がないことはよくわかっている。でも勉強はちがう。時間をかけただけどんどん上に上がっていけることは学生時代に実感している。だから、つまり、今そこに立てていないのはおれが怠けてきたからだ。

筋トレももしおれと同じくらいのメニューから始めておれより先にもっときつそうなメニューに進んだひとがいたらムキになり始めるかもしれない。比較しては悲しくなるかも。つらいのを我慢してもっとたくさん取り組んでたらおれも今あそこに進めてたのかなあ、みたいな。もしかしたらそうなのかもしれない。もうこれ以上書いててもなんも思いつかなさそうだから、これを仮の結論として終わりにしよう。

結局比較がしんどいという話になってしまった。気を抜くと比較しがちだから、なんとか比較したくなるのをおさえていくしかない。

そういえば比較するのって本能レベルの話らしいですね。比較する方が人間として自然らしいです。なんてこったい。

「比較しないようにしましょう!」と言ってくる本は多々あれど、んなもん知っとるわ!じゃあどうしたらいいんだ!への返答についてはいまいちピンとこないものが多い。自分なりのやり過ごし方を探すしかないんだろう。探していこうな。