地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

充実した生活を欲しているがそれが何なのかわからない

12/31

気になりだすと止まらない性格なので実況動画を第一優先として、先程見終わった。しばらく見ないだろう。燃え尽きというやつだ。

バランスを取ろうとするのであれば、ごはんを食べるときだけ見るとかにしたらいいんだと思う。高校まではそうだった。夕飯どきに必ず見るから、1クールに7本は見ていた。懐かしい。

さて昨日の続きのようなものになるが、おれは「充実した生活」に憧れている。可能であれば実現したい。ではどのようなときに「充実」を感じるか。

「何か満足感を得られるもの」になる。非常に漠然としている。これは、そう、明確な目標がないからだろう。絵や小説を生んでいた頃は「褒められたい」「もっと上手になりたい」「有名になってみたい」といった欲望があった。それは潰えた。受験のときは「受かりたい」があった。もう終わった。転職のときは「転職したい」「現状から抜けだしたい」があった。終わった。

何か「したい」という思いがないといけないのだろう。いや、それではおかしい。そうすると「この動画のシリーズをすべて見たい」という欲望があるとき、それを満たしても罪悪感が生まれることの説明ができなくなる。

考えられるのは自分の価値観だ。おれは昔から無駄なことになるべく時間を使いたくなかった。何をもってして無駄となるのか。これはもう自分に偏った考え方がこびりついているとしか考えられない。「勉強」「成長」という単語がくっついてきそうな行為は有益だと感じる。正直それ以外は無駄としか思えない。

しかしそんな価値観を持っていながら、当然のようにおれはツイッターを見て動画を見て散歩をして洋服などを散々迷いながら買い物をしている。この価値観におよそ向いていない感性を持っているのだと思う。もとはといえば、そういうことをしていれば周囲から認めてもらえるというのがおそらくこの価値観の原因だ。テレビでも学校でも、本を読んだり勉強をしたりすると褒められる。

しかし褒めてもらえるのも束の間、本の虫だとかガリ勉だとかと認定されるともう反応はもらえない。そういうものだ。そのひとにとって異常事態だから反応が返ってくるのだ。異常な結果が必要だ。

かわいそうに、それでも幼少期それがうれしかったのだろう。成長を追い求めることが人間にとって重要なのだと思い込んでしまった。そんなことはないのに。

この流れだと「無意味なことに全力を注ぐ愚か者」という意味でとらえられてしまうかもしれないがそうではないということをあらかじめ断っておくが、おそらくこういった理由でおれはオタクやマニアが大好きなのだと思う。有益かどうかなんて考えずにひたむきに何かを好きになれるその純粋さ。ライブに行ったり舞台に行ったり駅に行ったりイベントに行ったり、うらやましい限りだ。おれにはできない。気になるアーティストのライブなんて一度も行ったことがない。まあもちろんそれが高じて崇拝に近い形になり、とんでもない状態になるオタクもいるとは思うが、しかしその純粋さは本当にすごいと感じる。

全部無駄じゃないはずなんだ。全部。楽しいって気持ちが一番いいんじゃないか。後から後悔しないっていうのが一番いいんじゃないか。これだけでいくと何をしてもいい、楽しけりゃいいってことになってしまうので、もちろんこれはよくないのだけど。

充実感を探し求めている。