地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

境界を意識するのがへたくそな気がしてきた

愛が重いとは。重い愛とはなんだろう。

相手の持ち物にGPSをつけるのは重いらしい。たしかに重い感じはするが、そもそもどうやってつけるんだろう。そういや最近の防犯ブザーってGPSつきのとかあるらしいのを思い出した。科学技術を感じる。防犯ブザーを持たせるということだろうか。

相手の部屋を勝手に掃除するのは重いらしい。そうなのか。「勝手に」というところがミソなのかな。そりゃそうだよな、さすがに許可もらって掃除したってのに後から「重い」とか言われたら即ブチギレだ。となると、GPSも勝手につけるのがよくないのかな。

しかしここらへんは、過干渉とか、子ども扱いとかみたいに言われるやつではないのか。重い愛と過干渉は被るところが多いのだろうか。

さすがにここまできて検索をかけた。ふむ、相手が苦痛を感じる域にまで達しているのが重い愛らしい。相手が苦痛を感じなければセーフということだろうか。愛とはチームプレーらしい。

それはそうかもしれない。愛を与えられるほうも、受け取る技術? 感じ取る才能? がないとすれ違う。愛ある叱りでも伝わらなければただの暴言となってしまう。難しいね。

ところで愛ある(とわたしは感じる)叱りを受けているときの妙な安心感はなんなんだろう。不思議な感覚だ。文字だけだと明らかに怖い文面なのに、声やしぐさなんかが乗ると一気に化ける。そして文字だけだと威圧感がすごいという気遣いから絵文字が使われる。そしておじさん構文ができあがる。めでたし。そして愛がない(とわたしは感じる)叱りの恐怖はすさまじい。なんなんだ。

ところで(ウワッ、2連続)全然関係ないんですけど、愛という質量のないものに対して「重い」をあてるの、類推って感じですね。好き。

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やっとタイトルにきた。 わたしは境界を見つけるのがへたくそだ。書籍やゲームのジャンル分けとかも正直よくわからない。タイミングよくボタンを押してバトルするならアクションゲーム、なのか? くらいである。ひどいもんだ。これも検索してくれ、はやく。

仕事に対してもこの分類ベタは遺憾なく発揮されている。自分がなにをやったのかよくわからないのである。予定の調整、設計、仕様調査、修正、試験。

そんな仰々しいこと、したか? まぁ、したんだろうな。たぶん。うん。

もしかすると、ことばひとつひとつに仰々しさを感じすぎているのかもしれない。たぶんもっと気軽にみんな「予定の調整を行いました」とか「エラーログの解析をしました」とか言っているのだろう。

もちろんわたしも会社員らしく使うわけだが、「え? マジでこの言い方でいいのか? 解析っていうかそれっぽい原因候補を見つけてきただけだけど……」とそこそこどきどきしながら使っている。実はみんなすました顔をしているだけで、わたしと同じくらいどきどきしているのだろうか。だといいな。

しかし、ふと思ったが、もしかするとこれはある種の自己防衛につながるのかもしれない。つまり、わざと仰々しい物言いをすることで、自分のやっていることは非日常的なもの、というよりプライベートとは切り離されているもの、自分(?)から距離を取るためのもの、責任の所在は個人の自分ではなく肩書きを持つ自分(会社のホニャ部ホニャ課の自分、とか)であることを自覚するための表現だったりするのかもしれない。

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言語、というか、ことばに興味があると一時期大々的に自称していたが、中身はこんなものである。というかなんならもうそんなに興味ない。困ったなあ。

でも、せっかくちがう表現があるわけだ。つまり、いままでのことばでは表せなかったなにか独自のニュアンスがあるはずなのである。それに限らないことももちろんあるとは思うけど、わたしとしては、あると信じたい。

「幸福」と「しあわせ」のちがいはなんですか、と外国から来たひとに質問され、苦しまぎれに「ニュアンスがちがいます」と答えたという、中学時代の英語の先生の話を思い出した。

わたしうまく言えない。実際、なにがちがうのだろう。でも「幸福」と言うほうが自然な場面と「しあわせ」と言うほうが自然な場面はちがうというのはわかる。

なるべくひとつずつ汲みとっていきたい。と、頭では思うが、そんなことはいちいちできない。めんどくさいからである。疲れるのである。そんな丁寧に生きていられん。

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区別といえば、正常と異常の区別もたぶんろくについていない。わたしが嫌でなければそれでいい、という基準で動いている気がする。そういえば、こいつクソだなとは思っても、こいつ異常だなとはあんまり思ったことがない気がする。はて、異常とは。正常とは? しかしすくなくとも私は私を正常だと信じている。根拠はない。

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ちなみに最近読書に飽きてきている。通勤時間が長いからなんとか読んでいるが、いつまでもつかわからない。かと言ってほかにやりたいことがあるわけでもないから、電車では本を読んでいる。惰性である。最近はインターネットにゴロゴロいらっしゃる絵師さんたちのいろんなステキイラストを眺めてキャッとする日々を過ごしている。

おわった。ああ。お別れだ。またいつか再会しよう、読書趣味。かなしいね。でもたぶん再会するのはまちがいないから、待つしかない。

リアル書店に入るのが怖くなくなってきた

リアル書店やら図書館やら、個人の家にはまず置けないだろうというほど大量の本がこれまた大量の本棚に敷き詰められていて、その威圧感しかない本棚が人がすれ違える程度の間隔を開けてそこそこ広い空間に配置されているあの環境、あれがどうも苦手だった。そこに行くと自分がいかに全然本を読めていないか、読むのが遅いか、そういう無力感に襲われてつらい気分になるものだった。あれもこれも読みたいのに読めていない自分をなかば強制的に自覚させられて苦しかった。あと、大量の情報に晒されて混乱する。これについては書店に限らずドラッグストアとか服屋とかでも同じなのだが。

だから、本は通販で買っていた。通販はその商品ページの扱う本だけがでかでかと表示されて、それしか目に入らない。もちろん、これを買った人はこれも買っていますよというようなおすすめ一覧に他の本も出てくるわけだが、メインの商品よりは小さく表示されている。それがどうもありがたかった。まあ膨れあがったほしいものリストを眺めると結局まるでリアル書店にいるかのように苦しみだすんですけど。インターネットになっても変わらないじゃないか! なんてことだ!

……のだが、最近はこの前書いた大海原のアレを受け入れるようになったからか、少なくとも書店については変化が訪れた。

大海原のアレは要するに自分の気分や興味の波にほぼ全幅の信頼を置くことにした、という話だ。なんであれ自分が浮かんでいる潮の流れがそっちに向かっているのだから、じゃあそのまま従おうという、なんとも無気力で偶然に頼りすぎな生き方を選んだわけだ。

で、じゃあ上のように考えるようになったとして、読書島に漂流したときに何をするようになるか。そのとき読みたくなった本を買うなり借りるなりして、読むのみである。

読みたい本が決まっていれば迷わず通販サイトを利用するのだが、なにも決まっていないけどあたらしく本が読みたいというときもある。そういうときは、通販サイトよりもリアル書店の方がなんだかいい出会いがあるような気がしてきた。これは単純に今の気分で、そのうちまた通販サイトしか使わない日々がくるかもしれないんですけど。

というわけで、いざ、やんわりとした恐怖の対象であるところのリアル書店におそらく数年ぶりにひとりで足を踏み入れることにした。

ただ、あくまで本を買うと決めた日にしか入らない。他の人と一緒にいるときは買わない日でも入ることはあるが、ひとりのときは買う日にしか入らない。そして、一冊だけ買う。

ポイント還元とか考えると買う本だけ決めておいて後で通販サイトで買った方が得のような気がしているのだが、その本に出会わせてくれたのは紛れもなくそのリアル書店なので、なんとなくお礼としてその場で買うことにしている。

知的好奇心なんてとっくになくなっている。気になること、知りたい意欲なんてもうもっていない。タイトル、本の見た目、著者、目次なんかを見て、「あっ、これだ」となるものが見つかるまでひたすら書店をふらふら彷徨う。ただの亡霊である。で、一冊見つけたら、脇目も振らずにレジに向かい、会計が終わった瞬間そそくさと書店から離れる。

途中でほぼ必ず「気になるけど、今ではないな」という本に遭遇する。そういうのはほしいものリストに突っ込んでおく。そして存在を忘れる。

効率は悪いと思う。入店してすぐ見つけられることはまずなくて、何冊も手に取っては首をひねり、見つからないのかもなあと諦めかけてからやっと見つかってばかりいる。測ったことはないけどたぶん1時間はかかっている。ジャンルすら事前に決めないまま歩き回るのだから当然と言える。

しかし見つけられたときの感動はちょっとクセになりそうなものがある。「あっ、これだ」としか言いようがないのだが、なんか、なぞにスッキリするのだ。ゆるやかだった感情の波の振れ幅がちょっとだけ大きくなるというか。「ピンとくる」と言えばいいのだろうか。

こういう、自分が買う気になる本を手に取るまで行き当たりばったりに本を探していく場としてリアル書店を使うようになった。こうしてリアル書店は怖くなくなった。よかったね。

余談だが、この前入った書店で人生を変えた本みたいなアンケートの結果を並べたエリアがあったのだが、私に気軽に本を読めるようになったきっかけをくれた「本を読めなくなった人のための読書論/若松英輔」(亜紀書房)があった。あと、読んではいないけどおそらく似た雰囲気の内容であろう「本は読めないものだから心配するな/管啓次郎」(ちくま文庫)もあった。本を読みたい気持ちはあるけど読める自信がなくて、なんだかまわりに置いていかれているような心地がして、そんな自分が嫌いになっているひとがきっとたくさんいるのだろうなと思った。

最近の趣味は何? というような質問に「最近は本を読んでいます」と言うと、高確率で「へえ、(自分は)本は全然読んでないなあ」という、本を読んでいないことを恥ずかしがっているようなぼやきが返ってくる。読む気が起こらないなら読まなくていいじゃないか、と思ってしまうのだが、それは今だからこう言えるのであって。私も数年前だったらきっと同じ返答をしていた。

これがたとえば「アニメ見てます」とか「昼寝しています」とか「カフェ巡りしてます」とかだったらこんな反応は来ないのだろうか。逆に、「晴れていればジョギングをして、雨の日は家で筋トレしてます」だったら上と似たようなぼやきが返ってきたりするのだろうか。筋トレについては私は「最近やってないなあ」と返してしまいそうな気がする。興味の問題だろうか。いや、興味ではなく,体を動かした方が健康っぽい気がするからだろうな。

読書というのも、なんとなく好印象っぽい趣味なんだろう。たしかにどこか知的っぽいイメージはあると思う。もしくは、筋トレと同じように、取り組むべきであるというふうな、強迫観念じみたものがわりに広く共有されているのかもしれない。

私なんかはひとつのことを長く続けられない(どうしても中断が入る)ので、たとえば数年続いている漫画を新刊が出るたびに買って読んでいるとか言われるとスゲーッ!!となってしまうのだが。いや実際すごすぎないか? こちとら新刊を待っている間に興味がなくなってそのまま放置している漫画がいくつかあるんだが?

もちろん今は本を読む気が起きているから読んでいるだけで、きっとそのうちまた読まなくなる。そしてふとした瞬間にまた読み始める。ただ、たぶん、いつか中断したとしても、次からはリアル書店はもう怖くないような気がする。

本も本棚も多すぎてまちがいなく疲れてげっそりさせられるのだが、しかし、リアル書店は、たぶん通販サイトのおすすめ一覧には出てこなかった(と思う、なぜならサイトで見かけたことのない本ばかり手に取るので)出会いをくれるすてきな場所だ。

余談第二弾。 今で何度か、反応からしておそらく本人は覚えていないのだけど、過去に触れた情報に連想や想起するものが影響を受けているのを見たので、意識せずとも情報に触れるだけでなにがしか影響は受けるものだと私は思っている。

なぜ相手が過去に触れた情報であるということを私が知っているか? 過去に私が直々に教えたことだからだ。

たとえば私の苦手な食べものとか。どこでごはんを食べようかとなったときに、この系統が苦手だからこれ以外、と言って、へえ〜そうなんだと返ってくる。私の方は前も教えた記憶があるので、ああ覚えてないのだろうなと思う。だが、前回は苦手な食べ物の具体例Aを挙げたときにはっきりと「え!?」と驚いていたものについて、今回は向こうが自発的に「じゃあたとえばAとかもダメ?」と言ってくることがあるのだ。それ前回私が挙げたときにあなたが理解に苦しんでいた具体例〜〜!!!!

こういうのに遭遇するたびにびっくりしてしまうし、忘れていても片隅に残っているものなのだなとそのたびに感心する。

そもそも英単語帳ひとつですら丸暗記できたためしがないのに、読んだ本の内容はすべて把握し記憶しようだなんて無茶すぎる。そんな無茶はしなくていいのである。英単語帳を三周して全部覚えられたらそれは記憶の天才です、とかつて塾の先生に言われたことがある。当時はあの発言にだいぶ助けられた覚えがある。どうしても覚えたかったら何周もするしかないし、もしそれが三周で済むようなことがあったらそれはあなたがめちゃめちゃに記憶力がいいということだ。

だから、まあ、本は読んだ端から忘れていっていいと思う、ということだ。たぶんなにがしかの影響はどこか知らないところに残っているし、知らないうちに自分のものになっている。

それに、読んでいる間「たのし〜〜!!」と感じることができていたら、もう十分なんじゃないか。たのしくなくて耐えられなくなったらとっとと諦めて他の本に移るだけだ。趣味の時間なんだろう。たのしい気分でいさせてくれ。

クオリアの哲学と知識論証―メアリーが知ったこと/山口尚」(春秋社)とか、もはや難しいけどたのしかったという感想しか残ってないけど、でも私は大満足しているし、メアリーの部屋という思考実験が気になるひとにはぜひおすすめしたい本だと思っている。

この本、最終章以外は今までの議論のまとめで、最終章だけは今までのまとめではなく著者の考えが書かれているのだが、それまでわかりやすくて比較的すいすい読めたのに最終章だけは信じられないくらい難しくて、苦しみながら読んだ記憶があって、自分の考えを自力でさらにまとめて噛み砕いて紹介するのは他のひとの考えよりもたいへんなんだな……と思った覚えがある。おもしろいですよ、中身全然覚えてないけど。

もちろんこの記事だって、読んだ端から忘れていく勢いで読んでもらえればいい。序盤に私が何を書いていたか覚えていますか? 覚えてない? それでいいんですよ。ぶっちゃけ私も今この部分を書いていてあんまり思い出せない。自分で書いた記事なのに復習が必要とは……まあ、とにかく、ここまで読んでくれてありがとうございます。

浮かんで流されている浮き輪

Twitterがなくても生きられるものであるということがよくわかった。気が向いたのでつらつらと今思ったことをつらつら書いて投稿する。


アカウントを放置するのもわるくないなと思った。すくなくとも、こうして新しくアカウントをつくるほどではないけどなにか思い立ったというようなときにさくっと投稿できる場が残されてくれるわけだ。ありがたい限りである。まあ、削除する意欲が湧かなかっただけなんですけど。


ただ、興味関心とか気分とか、そういうのには波があって、私はそれに粛々と従うしかないようだということを、これから書いていく。本当にこれしか書いていない。めちゃくちゃシンプルな内容である。




興味関心


最近は、私は私のことを海に浮かぶ浮き輪かなにかのように思っている。波が向かうままに流されたり、風ひとつないときは同じ場所にぼんやり取り残されているだけの存在だ。


たまに謎の島にぶつかって、その上にいる動植物やら誰かが残したなにがしかやらを興味津々に眺めて、そのうちまた粛々と海に戻ってなすすべなく流されている。島と自分を命綱みたいに紐かなにかで結んで、ぜったいにまた戻ってくるぞ! と悪あがきしてみるときもあるが、まあ大抵傷んでちぎれているか自分で外している。


まわりくどいこときわまりない。要するに、私は私の中にある気分やら意欲やら衝動やらの波に従っているだけの存在なんだなとしみじみ納得するようになっただけの話だ。長いものには巻かれておこうとあらためて決意したというべきか。自棄に近い姿勢を感じるが、いまのところ急に仕事をやめたりところかまわず暴れたりしようとはしていないし、べつに自分に完全に絶望したわけでもないので、そういうわけではないと思う。


趣味は続かない、興味も続かない。一年もてば長いほう。


オタクに憧れてきた。オタクにもいろいろ種類はあるので、オタクという単語を使うのは適切ではないようにも思うのだが、なんと呼んだらいいのだろう。


ここでいうオタクは、ひとつのジャンルに対して何年も何年も情熱や関心を注ぎ続けられるひとたちのことを指す。そういうことにして先に進む。スポーツでも漫画でもなんでもいい。漫画でいうと、たとえ連載が終了したりして別の漫画に移ったとしても、何年も何年も、漫画を読む、なにかのファンになるということを続けているのならば、関心を向け続けていると同じようなものだと思う。


私は興味関心が長続きしない。島にぶつかっては喜んで這いずり回るもやがては海に戻ってしまう。離れないように綱やら鎖やらを巻きつけても意味はない。知らない間に外れている。


そういえばTwitterは数年もった。長続きしたな。ただ、あれは私にとっては趣味というよりもはや生活インフラに近い存在になっていたので、趣味や興味関心の矛先という感覚はあんまりないが。生活インフラに近い存在でも離れることが可能なのか? それはちょっと絶望するかもしれない。


思うに、そのとき、というより、就職・転職する気が起きたときに好きなことを仕事にするというのは、オタクに憧れる私としては正解だったのではないか。仕事は続く。飽きても飽きなくても取り組まないといけない。そうしないと社会で生きていけないからだ。単純明快しかもよくある理由。


正直、私はもうプログラミングに飽きている。なんならなにかつくりたいみたいな意欲や衝動がもうほとんどない。テキトーにこれほしいあれほしいと口走って、誰かがつくってくれたらうれしいな、くらいの気力しかない。なんてことだ、転職したての私にこれを読ませたい。きっと呆れながら「まあ、そうなるでしょうね」とでも言っただろうな。前からわかっていた傾向ではあるので。


いや、うそだ。つくりたい意欲はある。別の方面で。こうやって書き始めている時点でお察しだ。なにかつくりたいというのはずっとあるのだ。ちょっと前まではこうやって長々つらつら文字を打ち込むこともしていなかったので、これもそのうちまたやらなくなるんだろうなぁ。あーあ。


しかし、それでも私は相変わらずプログラミングに触れたりなにかシステムのなにがしかに関わっている。そういうのを仕事にしているからだ。


好きなことを仕事にするというのは、仕事にしたらつまらなくなってしまうとか飽きたときに苦痛だとかデメリットなんて挙げればキリはないけど、さっさと波に連れていかれる私のような者からすれば、たとえ飽きても続ける理由を与えてくれるという点でとんでもなくメリットのある行為だと思う。


過去に興味を持った時点で、しかも仕事にしようとまで思った時点で、飽きたとしても触れ続けるのが苦痛とまでいくことはあんまりないんじゃないか。あ、いや、これはひとによるだろう。私は興味がなくてもやれと言われればそこそこ手を動かせるほうだからこう言えているだけかもしれない。


まあつまり(ひとつのジャンルに長く興味や情熱を持ち続ける)オタクになれないけど(ひとつ略)オタクに憧れる私のような者にとって、好きなことを仕事にするというのは、消極的でまったくの別物でありながらも(ひ略)オタクに近づくことができるありがたい衝動なのではないかと思った。過去の私を褒めたい。あのとき転職してくれてありがとう。


ただ、この海はどこまでも平面ではないらしい。どうもどこかの時点でループしている。今こうして文字に戻ってきているのがいい証拠だ。最近はボカロ曲をまた聞くようになってきたし、また本を読むようになってきたし、ちょっと前まではおえかきにも再燃していた。たぶんまんなかに重力がある球体なんだろう。寄り道しながらもどこかで戻ってくるのだ。そしてまた寄り道が始まるのだろうな。次はいつ帰ってくるのだろう。




気分


気分についても同じようなものだ。私は私の気分を意のままにはできない。そのときの状況やら気圧やらなんだかんだで簡単に荒れ狂う。ただ、そのうちまた静かになるというのもわかってはいるので、最近はとにかく「今、荒れ狂っている」ということに気づくことに重きを置いている。そうして、「荒れてんなあ」となる。


無邪気に荒れ狂っている感情をそのままあたりに撒き散らしてもいいとは思うのだが、すくなくとも今はあまりそういうことに気乗りしない。


Twitterにすぐさま投稿しなくなったからなのか、奇跡的に現在幸運にも環境に恵まれまくっているからなのか、それとも私が以前よりも自分の感情の波に慣れたからなのかわからないが、どうも前ほど大規模に荒れ狂うことが減ってきているように思う。


新鮮な感情、生まれたての感情をやりすごすのはなんだかもったいないような気もする。そこにはたしかになにか大きなエネルギーがあるというか、生命力のあらわれそのもののように思えるし。


しかし、繰り返すが今の私はあんまりそういうのに乗り気じゃないので、基本的に荒れてるなと気づいたらなるべくじっとして嵐が去るのを待つようにしている。声に出したり顔に出したりはするが、文字にしたりはしないで、あ〜しんどいなぁとげんなりしながら普段通りの生活のような動きをする。まだごはんを食べてなければごはんを食べる、特にやることがなければいっそ寝はしないが布団にもぐる。するとそのうち本当に去る。


そんな感じで生きているせいからか、最近は新鮮な感情を見かけると「新鮮だなあ」みたいな感想が出てくるようになってきた。自分でもびっくりだ。べつにこうなることを狙って過ごしていたわけではない。私は私の気分の波とうまく付き合いたかっただけである。


こんなものはもちろん、その生まれたてほやほやの感情が私に向いていないからだろう。私に向いていたらこんな他人事として見られない。なにか対応をしなくてはいけなくなる。まぁそのときはそのときだ。そのときに私が浮かぶ海の状態に従うしかない。


いや、感情とかについてはどちらかというと私の中に海があるのだろうか? 海というよりもっと小規模な、たとえばどんぶりの中の水という感じもするが。


ちなみに、荒れ狂うとか書いているから、あくまで怒りとか悲しみとか負の感情に対してのみこうやっているように見えそうだが、実際のところは楽しいとかうれしいとか正の感情にも適用されている。波が立っているという点でどっちも同じなのだから当然である。でもたのしいとやっぱたのしいんだよなあ。疲れるけど。疲れるから嫌というわけではないのがちょっとめんどうだ。しかし疲れるのも事実なんだよな。


とかえらそうに書いてあるが、要するに波が激しいからこんな風に対応なんて考えないといけなくなってしまっているのだ。うれしかったらとことん喜ぶしはしゃぐし調子に乗るし、かなしかったらとことん落ち込むしなににもやる気がなくなるし動けなくなるし、困ったものである。せめて波の強さをもうちょっと抑えられないものだろうか。




おわり


大空に引っ張り上げて、自由に飛び回らせてやろうと思ったか。海底に引き摺り込んで、どっしりかまえさせてやろうと思ったか。


どれもありがたいし、私も気分が乗っていればよろこんでついていく。どれも憧れるので。けど、たぶんどれも頓挫するだろう。勢い余って海面から跳ねることもあるし、波に呑まれて沈むこともあるが、それでもやっぱり浮かんでしまうのだと思う。私はそういうやつなのだと思う。あくまで浮き輪的ななにかなのだ。


ぜったい前にもこれみたいな記事書いたよな。読み返していないけど。再放送だ。たぶんまたそのうち表現を変えて再放送すると思う。ずっとこんな感じなのだろう。


読み返してすらいないんですけどさっきまでほんとに何を書いていたんでしょうね。変なこと書いてないといいけど。今から勢いで投稿する。ははは。では。

自撮りを連続30日間続けた感想

どうも。
インターネットの海から、自撮りを続けると自己肯定感が上がるという情報を見た。気になる人はそれっぽいワードで検索してみてほしい。すぐに出てくると思う。
たしかに自分の顔を連日記録・保存するのは自分(というよりは自分の顔か?)が嫌いな人間にはなかなかできなさそうな芸当である。ということで、一日に一度、それも五秒もかけずに自撮りしているという羞恥心に耐えるだけで自己肯定感が上がるなら安いもんじゃないかと、試しに自宅でやってみることにした。
写真は無加工でいくことにした。メガネの有無はその日の気分による。本当は加工までした方がいいのだろうが、加工する気力は起きなかった。別にこれらをプロフィール画像にするわけじゃないし、誰にも見せないし、加工するためのアプリを探して入れるのもめんどくさい。そういえば最近あまり加工アプリの名前を聞かなくなったが、周囲での自撮りブームが去ったのだろうか。
初期の頃はだいぶきつかった。完全に苦行。何をやっているんだろうと何度も思った。カメラロールは自分の顔で埋まり、もはやひとさまには見せられない絵面になっている。ツイートしようとすると自分の顔とご対面することになる。自撮りをするときの表情も終わっている。しかし、続いた。よく続いたな。何がモチベだったんだ。
次に書く結論の次に、なぜ続けられたかを書く。まず結論だ。みなさん気になるのはここだろう。
結論からいうと、自分の顔が特段好ましいと感じるようにはならなかったが、写真に映る自分(の顔)が自分から切り離された感覚を得た。
今までは自分の顔が映った写真を見ると「うわあ、嫌だな、見たくないな」と反射的に嫌な気分になっていたのが消えて、ただ、「顔だ」というふうになった。
これはかなり感覚的な話だ。何を言っているかわからないひとも多いかもしれない。
「嫌なもの」から「ただの顔」に変わったというか。見た瞬間に何かしらの感情が湧くことがなくなったというか。自分の顔に対してちょっと他人行儀になったというか。「自分の顔」であることは脇に置いて、「顔の造形」に着目できるようになってきたというか。そんな感じである。
「自分の顔」そのものに対しては今までの拒否感がなくなったので、たしかに自己肯定感は少しは上がったと言ってよいのかもしれない。自己肯定感というよりは自分(の顔)のことを受け入れられるようになったという方がしっくりくるが。
現時点ですでに「自分の顔の造形」に対して冷静に注目できるひとが、同じように自撮りを続けたところでこんなふうに変化を感じられるかはわからない。実際わたしはこの変化を感じた後は特に何も変わらなかった。ちなみにわたしは開始して一週間ほどで上記の変化を感じた。つまり残りの二十三日間はほぼ惰性と気合いのみで続けていたわけである。
なぜ自撮りがこんなに続いたのかというと、おそらくTwitterのおかげである。Twitter公式クライアントではツイート画面で最新のカメラロールが一部表示される。文字の入力を始めれば画像は消えるが、一瞬にせよ自分の自撮りが目に入る。そして「うわあ自分の顔が並んでいる、最悪だ」となる。そうして、そういえば今日はまだ撮ってないや、と思い出していた。期せずしてツイートするという行為がリマインダーの役割を果たしたというわけだ。
とはいえこれはおそらく最初の数日間の話である。途中からツイート画面に自分の顔面が出てくることに慣れてしまったので、結局気合いである。たぶん。
では、以下はメモである。上記の結論に至るまでの大雑把な過程が書いてある。クソ長いので「続きを読む」にしてみる。さっき見つけた機能だ。
興味もったら自撮りチャレンジしてみてください。自己肯定感が上がる感覚を得られるかはわからないけど、もし自分の顔そのものに嫌悪感があるならば少しはマシになるかもしれない。
では。

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美容室の指名制度がよくわからないし怖い

どうも。

美容室。みなさん行ったことがあるだろう。主に髪や頭皮を整えるところだ。たまに眉毛を切ってくれるところもある。

ちなみにわたしは大学に入るまでは「床屋」(本当は千円カットの店)と呼んでいた。「美容室」はパーマをかけたり髪を染めたりするおしゃれなところだと思っていた。美容室でもカットのみのメニューはある。だから、床屋は美容室に含まれている。たぶん。

そんなわたしは大学に入って初めて美容室に行った。そして、担当してくれた美容師さんが去り際に「次は指名をお願いします」みたいなことを言ってきた。

これが恐怖の始まりである。今まで指名を求められたことはなかった。テキトーに店に行き、ちょうど手の空いた美容師さんに呼ばれて行って髪を切られる。それだけだったのに、急に「指名」という何かが追加された。

指名とは何だ。怖くていまだにやったことがない。京都にいたときは個人経営のお店に通っていたから、指名の恐怖から逃げることができていた。そもそも美容師さんがひとりしかいないからだ。しかし、引っ越してしまったため、またもや指名の恐怖にさいなまれることになった。

この前行ったら、「指名」という単語は出なかったが、お会計のときに名刺を渡された。指名しろという無言の圧であろうか。非常に怖い。次に行ったときにもし別のひとが担当だったら。もしこのひとがその場にいたら。気まずい。たぶん何も起こらないだろうと思うが、妙に不安になる。

結局次は別のお店に行くことにした。たぶん次も同じようなことになるから、その次はまた別のお店に行くと思う。

美容室ジプシーとでも呼んだらいいのだろうか。お気に入りの美容師を探し歩いているならともかく、指名を恐れてジプシーになるのはいかがなものかと、我ながら呆れる。

冷静に考えて向こうからしたら大量にいる客のひとりである。こっちの顔も名前も覚えているわけがない。堂々と指名なしでまた向かえばいいだけのはずだ。

個人経営のお店に行くようになった理由は、ある日、ハガキが郵便受けに入っていたからだ。お店やってますよ〜よければどうぞ、みたいな内容のだ。たしかクーポンがくっついていた。個人経営の美容室は最高だった。指名などという単語が頭をチラつくこともない。

ここにも個人経営の美容室のハガキが届かないものだろうか。

毎回探すのも面倒なので、3店舗か4店舗くらいを回そうかなと考えている。そうしたら1年くらいは空くだろう。本当にそんなにうまくいくか?わたしの記憶力次第である。

では。

今年読んだ本の羅列2020

年末になると一年を振り返りたくなる。年末といったってクリスマスとかハロウィンとかと似たようなものなのに。

というわけで、今年はそれなりにたくさん本を読んだ気がするので、購入履歴をもとに以下に羅列してみる。

ネットでばかり買っているおかげで購入履歴をさかのぼれる。便利だな。わたしが知らないだけでリアル書店のアプリとかでも購入履歴は見られるのかもしれないが。

順番は大体は読んだ順だと思うが、おそらくちがうところも多々ある。というかいつ何を読んだかなんて直近の以外は覚えているわけがない。数ヶ月前のことも「この前」として思い出すような人間だ。なので下記の実態は順不同である。

微妙に長いので、めんどくさくなったら高速スクロールをおすすめする。高速スクロールする気が起きれば。本当にめんどくさかったら今すぐこの記事を読むのをやめているか。

===今年読んだ本(順不同)===

天然知能
郡司ペギオ幸夫
講談社選書メチエ

触覚の世界
高村光太郎
青空文庫

がんばらない練習
pha
幻冬舎 

死を招くファッション 服飾とテクノロジー危険な関係
アリソン・マシューズ・デーヴィッド 著
阿部恵子 訳
化学同人

 ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界
ダニエル・L・エヴェレット 著
屋代通子 訳
みすず書房

身体的生活-医師が教える身体感覚の高め方
佐藤友亮
晶文社

18歳の著作権入門
福井健策
ちくまプリマー新書

ことばの発達の謎を解く
今井むつみ
ちくまプリマー新書

完全教祖マニュアル
架神恭介
ちくま新書

社会学の名著30
竹内洋
ちくま新書

近代中国史(※途中まで)
岡本隆司
ちくま新書

イネという不思議な植物
稲垣栄洋
ちくまプリマー新書

みんなの道徳解体新書
パオロ・マッツァリーノ
ちくまプリマー新書 

サイコパスの真実
原田隆之
ちくま新書

ニック・ランドと新反動主義―現代世界を覆う”ダーク”な思想
木澤佐登志
星海社

あやうく一生懸命生きるところだった
ハワン 著
岡崎暢子 訳
ダイヤモンド社

世界は夢組と叶え組でできている
桜林直子
ダイヤモンド社

ハッピーエンドを前提として この世は頭のいい女、がまん強い女ほど幸せになりにくいように仕組まれている
ウイ
KADOKAWA

調子いい!がずっとつづく カラダの使い方
仲野孝明
サンクチュアリ出版

虚構世界はなぜ必要か?―SFアニメ「超」考察
古谷利裕
勁草書房

楽園とは探偵の不在なり
斜線堂有紀
早川書房

積読こそが完全な読書術である
永田希
イースト・プレス

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて
熊代亨
イースト・プレス

中動態の世界-意志と責任の考古学
國分功一郎
医学書

自分の薬をつくる
坂口恭平
晶文社

ダイエット幻想―やせること、愛されること
磯野 真穂
ちくまプリマー新書

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」
ダン・アリエリー 著
熊谷淳子 訳
ハヤカワ文庫NF

いつも「時間がない」あなたに―欠乏の行動経済学
センディル・ムッライナタン、エルダー・シャフィール 著
大田直子 訳
ハヤカワ文庫NF

日常に侵入する自己啓発-生き方・手帳術・片づけ
牧野智和
勁草書房

怒らニャい禅語―感情をシンプルにする60の方法 
枡野俊明
河出書房新社

老子の教え あるがままに生きる 
安冨歩
ディスカヴァー・トゥエンティワン 

===以上===

数えたら31冊らしい。途中でやめているのを除いても30冊。すごいぞ。1ヶ月に2冊は読んでいる計算だ。まあ、見ての通り、新書で数を稼いでいる感は否めないが。新書はすらすら読める傾向にあるし、ページ数もそんなに多くない(わたしが勝手に言ってるだけだ、実際どうなのかは知らない)。kindleセールに踊らされた結果である。踊らされてよかったと思っているが。どれも読んでいておもしろかった。

ちなみに途中でやめたのはつまらなくなったからというわけではなく、読んでいる途中で他にどうしても読みたい本が出てきてしまったので後回しになり、そのまま存在を忘れたものである。たしか。ちなみに買うだけ買って開いてすらいない本もいくつかあるらしい。完全に忘れていた。

興味が湧いたものに基本的には手を出しつつ、定期的に今の自分や将来について不安が生じ、それへのアドバイスをくれそうな本が混じっている感じだろうか。

ちなみにアドバイスをくれそうな見た目の本で「マジで役に立ったマジありがとう!!」というようなものはない。正直、日常に侵入する自己啓発の方が役に立った。それでもまた買っては読んでしまう。ぶっちゃけほとんどどの本も似たようなことしか書いていないのに。要約すればあまり真新しいことはなさそうな内容に、著者ごとのスパイスで斬新そうに味付けされているような感じだ。日常に侵入する自己啓発はなかなか耳に痛い内容だった。いやはや。 

書き始めたら意外とそれなりにどの本についても少しは記憶が残っているらしく、どれも少なくとも1ツイート分くらいならつらつら書けそうだ。そんなことをしていてはいよいよクソ長くなってしまう。羅列しただけでえらい行数なのに。まとめに入る。

上記、「こいつはマジでつまんなかったし何ひとつなるほどとなることもなかったしマジ最悪」というような本はなかった。わたしがあまりこだわっていないだけかもしれないが。わたしが最後まで目を通している時点で察してほしい。

上記は何かの宿題などで読んだわけではなく、わたしがわざわざ自由時間を割いて読んだものたちだ。言うなれば、ツイッターの魅力に打ち勝ったものたちだ。少なくともそれなりにはおもしろかったはずだ。若干腹を立てつつ読んだ本もあったことは認めるが、それでも少しは「なるほど」と思える箇所はあった。

要するに、もしタイトルを見て興味が湧くものがあれば手に取ってみるといいと思う、と言いたいだけだ。気になるタイトルについて聞いてくれたらうろ覚えの範囲でお伝えする。読み直す気はない。

本は気軽に読んでいい。それこそツイッターを眺めるようにぼーっと読んでいいのである。わたしはそうやってなんとなく目を通している。というか、そう考えることでようやく気軽に本を買い、開くことができるようになってきた。

しかし別に本を読むのがえらいわけでもない。いやもう今こうやって書き連ねていることが気になったひとは若松さんの「本を読めなくなった人のための読書論」を読んでほしい。わたしの読書へのスタンスはかなりここによっている。

では。

(PS)

今読んでいる本もあるのだが、今回は購入履歴を今年分に絞って書いたので、来年もたぶん同じようなことをして今読んでいる本を飛ばしてしまう気がする。なので先手を打ってここに書いておこうと思う。年内に読み終わるか怪しい。

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知ってるつもり―無知の科学
ティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック 著
土方奈美 訳

1984 (Modern Classics Series): Big Brother Is Watching You - A Political Sci-Fi Dystopia (English Edition)
George Orwell
e-artnow 

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どっちもすごくおもしろい。1984年は英語版だ。急に挑戦したくなったのである。細かいところは案の定わからない、というかkindleのwordwiseなる機能がなかったら開始1ページで投げ出しているレベルだが、なんとなく話の流れから大体何が起こっているかはわかるので、とにかく名前らしきものが出てきたら把握しとくようにしている。版が多すぎてどれが何なのかよくわからなかった。ちなみに買った理由はポイントが溜まってて実質タダだったからだ。ひとはタダの魔力に弱い。アリエリー教授が教えてくれた。では英語長文と格闘しに出かけます。

理想から距離を取る

私は私が嫌い。「理想の私」ではないからだ。


事あるごとに私は「理想の私」からかけ離れる。一歩ずつ近づこうとしてもだめだ。一念発起した一時間後にはもう失敗している。私は「理想の私」にまったく近づけなかった。


一時的にはそれに近い状態になれる。しかし、短時間のうちにバテて、疲れてしまう。疲れると何が起こるか。身体の不調、精神の不調。周囲に誰かがいるときなんて最悪だ。急にむすっと不機嫌になり、言葉遣いもいつもより荒くなる。ひどいことを口にしてしまうこともある。大抵後で落ち着いてから後悔する。


「理想の私」を保てない私は嫌いだ。


ちなみに上に書いた理想とは主に立居振る舞いのことである。ここに外見など追加したら大変だ。当時の私は女の子になりたかった。ふわふわのかわいい女の子になりたかったのだ。見た目も中身も。


なりたかった。そうだ。上に書いたのは過去の話だ。


今の私は少しずつ変わってきている。そもそも当時の私はなぜこんなに自分のことを好きになれないのかわからなかった。周囲のひとに褒めてもらえなければ私はもう本当にどうにもならないのだとしか思えなかった。いや、というのは嘘で、実際そうなってもなんやかんや言い訳をしながらしぶとく立ち上がっていた気はするし自信もあるが、とにかく気持ちとしてはそんな感じだった。


要するに、「理想の私」は私が目指すべき存在で、これになれないのなら私はいつまでもずっとずっとだめな存在なのだ、と考えていた。あのときはあまりにも自分にとって当然のことすぎて言葉にできていなかったけど。


気づいたのである。私が私のことを好きじゃないのは、おそらく私が「理想の私」ではないからだということ。そして、私は「理想の私」になるのに向いていないこと。


体力を激しく消耗しないと「理想の私」に近づけない。現状、私はあまり体力がない。一回の消費量を抑えるか、体力バカになるしかない。


しかしそれは無理そうだった。過去の私ならば「もっとがんばればできるはずだ」と信じていただろうが、今の私には信じられない。がんばってもまた次なる「理想の私」が待ち構えているだけだ。レベル1の「理想の私」をクリアしたらレベル2が出てくるのである。最大レベルはない。無限大だ。たぶん。到達したことないからわからないけど。


そもそも「一回の消費量」とか言ってる時点でもうそれクリアできそうにないじゃないか。クリアしたら常にその動きができるはずだから、もはや消費体力など関係ないはずなのだ。たぶん。


最近、といってもここ数週間といったところだが、私は「理想の私」から少しずつ離れて、なるべく体力を消耗しすぎないで過ごす方法を模索している。


たとえば、あんまりテンションを上げすぎない、もしくは疲れそうな予兆を感じ取ったらちょっと立ち止まる、とか。うれしいとどうしてもテンションが上がってはしゃいでしまうが、どうも私にはこれを保つのがかなり難しいらしい。途中何かのタイミングでバテてきたことには気づくものの、でも最初にはしゃいじゃったのに途中で冷めてしまうのも……と延々とはしゃぎ続けてしまう。当然ガタがくる。不機嫌になったり、勢い余って失礼なことを口走ったり、まあいろいろである。とにかく他人に迷惑をかけてしまう。それならまだ途中で冷めた方がマシだろう。冷めると言っているが、MAXはしゃぎよりははしゃぎ度を下げるくらいなものだ。まあ、それくらいはいいだろう。まあ、疲れていなくても時には他人に迷惑はかけてしまうわけだが……うん……


とにかく、少しずつ自分を受け入れていこうと思っている。疲れにくいときの自分はどんな自分なのかを把握して、何かあったらそこに戻れるようにしていこうと思う。その「疲れにくいときの自分」すらレベル1やレベル2がありそうな予感がするが、少なくとも「理想の私」よりはまだ達成に現実味があるのではないだろうか。


単純に調子がいいだけなのかもしれない。そのうちまた調子が悪くなるのだろう。そういうものだ。そのときはきっとまた「理想の私」に想いを馳せて、自分よりそれに近そうなひとを見ては羨み、そうなれない自分を恨むのだろう。断ち切りたいものだ。


読みにくいなと思ったので理想の私にカッコをつけたけど、これはこれで妙に強調し続けていてなんだか気味が悪い。まあいいか。読みやすさは多少は増しただろう。たぶん。


そもそもこれ自体明日には考えが変わっているかもしれないのだ。「疲れにくい自分」が何なのかもいまいちよくわからないし。いわゆる「素」ってやつなんだとは思うが、でも「素のあなたはそうなんだね」みたいなことを言われるとそれはそれで違和感がある。素も何も、はしゃいでいる私だって私である。別に「素」とやらを隠しているわけではない。でも、相手が断絶を感じてしまうのもきっと事実だから、はっきり否定もできない気がする。


まだうまく言葉にできている気はしない。でも軽く読み返してもあまり違和感はないから、今はきっとこれで十分なのだろう。


「理想の私」を追い求め、「今のこの私」を否定するよりかは、「今のこの私」を受け入れることの方が気楽なのではないか。少なくとも自分には合っている気がする。


しかし「理想の私」を追い求めること自体は何も悪くないはずだ。何か目標ができたら大抵は「それを達成した私」を夢見るはずだ。そして、そこに向かうのは決して悪ではないし、ばかなことでもない。でもそれができるのは明確な終わりがあるときだけな気がする。たとえば試験とか。明確な終わりがないのは、なんだか、少なくとも自分にはあまり向いていない気がする。


とか言って、「疲れにくい私」とか言っている時点で、結局新たな終わりなき目標を掲げているような気もする。あー、今日も何もならなかった。


では。