地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

境界を意識するのがへたくそな気がしてきた

愛が重いとは。重い愛とはなんだろう。

相手の持ち物にGPSをつけるのは重いらしい。たしかに重い感じはするが、そもそもどうやってつけるんだろう。そういや最近の防犯ブザーってGPSつきのとかあるらしいのを思い出した。科学技術を感じる。防犯ブザーを持たせるということだろうか。

相手の部屋を勝手に掃除するのは重いらしい。そうなのか。「勝手に」というところがミソなのかな。そりゃそうだよな、さすがに許可もらって掃除したってのに後から「重い」とか言われたら即ブチギレだ。となると、GPSも勝手につけるのがよくないのかな。

しかしここらへんは、過干渉とか、子ども扱いとかみたいに言われるやつではないのか。重い愛と過干渉は被るところが多いのだろうか。

さすがにここまできて検索をかけた。ふむ、相手が苦痛を感じる域にまで達しているのが重い愛らしい。相手が苦痛を感じなければセーフということだろうか。愛とはチームプレーらしい。

それはそうかもしれない。愛を与えられるほうも、受け取る技術? 感じ取る才能? がないとすれ違う。愛ある叱りでも伝わらなければただの暴言となってしまう。難しいね。

ところで愛ある(とわたしは感じる)叱りを受けているときの妙な安心感はなんなんだろう。不思議な感覚だ。文字だけだと明らかに怖い文面なのに、声やしぐさなんかが乗ると一気に化ける。そして文字だけだと威圧感がすごいという気遣いから絵文字が使われる。そしておじさん構文ができあがる。めでたし。そして愛がない(とわたしは感じる)叱りの恐怖はすさまじい。なんなんだ。

ところで(ウワッ、2連続)全然関係ないんですけど、愛という質量のないものに対して「重い」をあてるの、類推って感じですね。好き。

+++

やっとタイトルにきた。 わたしは境界を見つけるのがへたくそだ。書籍やゲームのジャンル分けとかも正直よくわからない。タイミングよくボタンを押してバトルするならアクションゲーム、なのか? くらいである。ひどいもんだ。これも検索してくれ、はやく。

仕事に対してもこの分類ベタは遺憾なく発揮されている。自分がなにをやったのかよくわからないのである。予定の調整、設計、仕様調査、修正、試験。

そんな仰々しいこと、したか? まぁ、したんだろうな。たぶん。うん。

もしかすると、ことばひとつひとつに仰々しさを感じすぎているのかもしれない。たぶんもっと気軽にみんな「予定の調整を行いました」とか「エラーログの解析をしました」とか言っているのだろう。

もちろんわたしも会社員らしく使うわけだが、「え? マジでこの言い方でいいのか? 解析っていうかそれっぽい原因候補を見つけてきただけだけど……」とそこそこどきどきしながら使っている。実はみんなすました顔をしているだけで、わたしと同じくらいどきどきしているのだろうか。だといいな。

しかし、ふと思ったが、もしかするとこれはある種の自己防衛につながるのかもしれない。つまり、わざと仰々しい物言いをすることで、自分のやっていることは非日常的なもの、というよりプライベートとは切り離されているもの、自分(?)から距離を取るためのもの、責任の所在は個人の自分ではなく肩書きを持つ自分(会社のホニャ部ホニャ課の自分、とか)であることを自覚するための表現だったりするのかもしれない。

+++

言語、というか、ことばに興味があると一時期大々的に自称していたが、中身はこんなものである。というかなんならもうそんなに興味ない。困ったなあ。

でも、せっかくちがう表現があるわけだ。つまり、いままでのことばでは表せなかったなにか独自のニュアンスがあるはずなのである。それに限らないことももちろんあるとは思うけど、わたしとしては、あると信じたい。

「幸福」と「しあわせ」のちがいはなんですか、と外国から来たひとに質問され、苦しまぎれに「ニュアンスがちがいます」と答えたという、中学時代の英語の先生の話を思い出した。

わたしうまく言えない。実際、なにがちがうのだろう。でも「幸福」と言うほうが自然な場面と「しあわせ」と言うほうが自然な場面はちがうというのはわかる。

なるべくひとつずつ汲みとっていきたい。と、頭では思うが、そんなことはいちいちできない。めんどくさいからである。疲れるのである。そんな丁寧に生きていられん。

+++

区別といえば、正常と異常の区別もたぶんろくについていない。わたしが嫌でなければそれでいい、という基準で動いている気がする。そういえば、こいつクソだなとは思っても、こいつ異常だなとはあんまり思ったことがない気がする。はて、異常とは。正常とは? しかしすくなくとも私は私を正常だと信じている。根拠はない。

+++

ちなみに最近読書に飽きてきている。通勤時間が長いからなんとか読んでいるが、いつまでもつかわからない。かと言ってほかにやりたいことがあるわけでもないから、電車では本を読んでいる。惰性である。最近はインターネットにゴロゴロいらっしゃる絵師さんたちのいろんなステキイラストを眺めてキャッとする日々を過ごしている。

おわった。ああ。お別れだ。またいつか再会しよう、読書趣味。かなしいね。でもたぶん再会するのはまちがいないから、待つしかない。