地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

ホロENにハマってたら耳が変わった

どうも。

MacBook Pro(2013)をMacBook Air(2020)に買い替えた。当時のMacBook Proなんて高スペックの権化のように思えたが、それも今は昔。7年も経つとAirの方がもはや高スペックである。intelの数字は相変わらずAirの方が小さいが、7年も経っていたらたぶん少なくとも同レベルくらいにはなっているだろう。キーボードを押したときにパタパタ感があり、楽しい。まともそうなキーボードは大抵分厚いが、キーボードは別に分厚くある必要はないのかもしれない。

今回はVtuberにハマったことによって変わったことについて覚書をする。

まあどうせまたいずれ飽きるのだが(ちょっと前まであんなに好きだった実況者の動画を最近はまったくと言っていいほど見ていない)、とにかく、今はVtuberにハマっている。もちろんあらゆるVtuberを追っているわけではない。そんなことをしたら身がもたない。多すぎる。

ハマったのはホロライブの中に最近できたチーム(?)の、ホロライブENGLISHである。下心を隠さずに言うと、ちょうど自分の中での「英語を聞き取れるようになりたい欲」と「かわいいを摂取したい欲」がうまく合致したことが要因だと思う。最推しがいるわけではなく、youtubeを開いたときにちょうど配信をしているひとがいればそれを見る、というくらいの温度感だ。スケジュールは確認しない。そしてアーカイブを聴きながら寝る。

まあしかしここまでは他の実況者にハマっていたときとほぼ変わらない。配信に間に合うように日課タイムアタックが始まるようになった程度だ。(ゲーム実況者で頻繁に配信をするひとはいるはいるが少ない。基本的には動画投稿になるので、急ぐ理由がない。)

じゃあ何が変わったのか。言葉にしてみると全然大層なことではないのだが、英語がある程度聞き取れるようになった。いや、本当にそれだけなのだが、自分としてはかなりの革命的な出来事である。今、人生で一番大量に英語を聞いているし、英語を聞き取れている。まさか2週間かそこらの間Vtuberの配信とアーカイブにかじりついていただけでこんなにすんなり聞き取れるようになるとは思っていなかった。

もちろん一言一句理解できているわけではない。しかし、大まかなニュアンスはわかる。まず最初は知っているような気がする単語の音だけがわかる。そのうち、知らない単語が並んでいても単語の区切りがどこかはわかるようになってくる。耳が慣れてくるらしい。頭の中で英文ができあがるわけではない(つまり文字起こしはできていない)が、わかってくる。あとはやる気が起きたときにそれっぽい綴りの単語を検索したり、聞き取れた音をsiriに話しかけて意味を調べる。「今の知らない単語、文脈から推測するとこういう意味かな?」という感じで聞いていっている。

あまり早口でしゃべるひとがいないのも大きい。感情が昂っているときは早口になったりもするが、基本的にはそんなに早口ではない。というか大体そういうときは決まり文句しか言わないので早口でもそこまで問題ない。「くそ!」とか。

まあしかしここまで書いておいてなんだが、こんなにすんなりいっているのは過去にそれなりに英語を勉強したことがあるからだと思う。受験勉強のときはもちろん、他にもちょくちょく英語を読めるようになりたい欲が出たときに英文を読んだり、動画を探して発音を真似したりしていた。それに、開発するときにわりに頻繁に英語記事を読まないとどうにもならないことがあるから特に苦手意識もなかった。要するに、最低限の土台はすでにあったと思う。

英語のニュースが聞き取れるかというと聞き取れない。今からアメリカ旅行ができるかといったら無理だ。でもおれは今、一番聞きたい英語(みんなの配信)はなんとかわかるようになってきたのである。十分すぎる。

なんというか、文字しか知らなかったところに音声がくっついてきた感覚がある。とにかくうれしい。まだ慣れていないからかイヤホンをつけて聞かないとすぐに音がわからなくなってしまうが、そのうちイヤホンなしでも問題ないようになっていきたい。ありがとうホロEN。まじで。

希望に満ち溢れた記事になった。それでは。

自動ドアを通るのが怖い

自動ドアを通るのが怖い


どうも。自動ドアを通るのが怖いです。エレベーターへの出入りとか、可能なかぎり開いた直後にサッと入りたい。ちょっと経ってから入るのは中にすでに人がいるのでもない限りは安心して通れない。必ず横に手をかざしながら通る。たしかに衛生的だし、力を使わなくてもいいし、便利なのは間違いない。しかし、それでも私は自動ドアが好きではない。

理由は至って単純である。小学生低学年くらいの時に近所のマクドナルドにあった自動ドアに私はあっさり挟まれた。まだ身体が小さすぎたから感知してくれなかったんだろう。見事に肩に自動ドアがめりこんだ。トレーを持ってなくて本当によかった。余談だが、あれはたしか空港だったと思うが、スーツの紳士が優雅にコーヒーを持って移動していたらガラスに激突してしまい、服も床もコーヒーで濡れた光景を見たことがある。正直、離れて見ていた私にもあそこにガラスがあるようには見えなかった。ガラスは多少曇っている方が親切なのかもしれないなと思った。

マクドナルドの自動ドアは、さすがに私を勢いよく挟んだ後はすぐに開いたが、それにしてもとにかく痛かったし、まさか自動ドアに挟まれるなんて当時は一切想定していなかったので、自動ドアに対して完全に恐怖を抱いてしまった。

それ以降、取っ手のような位置に手で触れないと開かない仕様の自動ドアしか信用しなくなった。自動ドアはなるべく開いている間に通り抜ける。閉まろうとしている時は少し前で立ち止まり、開き始めるのを待つ。エレベーターが複数あるような大型ビルにおいては開く予兆のあるエレベーターに真っ先に向かい、なるべく開く前から目の前に待機するようになった。とにかく、二度と挟まれないようにするためである。

これのおかげで役に立っている部分はある。電車で駆け込み乗車は絶対にしない人間になった。たまに駆け込んだものの挟まってるひとを見るが、なぜ自ら挟まれに行かねばならないのか。私は嫌だ。まあ、そもそも駆け込み乗車するなよという話なので、ただ行儀のいい人間ができあがっただけだが。

とか言って、ちょっと焦ってる時はやっぱり駅の中でなかなかのスピードで早歩きしてしまうので、実はできあがっていない気もする。少なくとも駅の中で全力疾走して他の利用客にぶつかるなんてことはまずしない。人が少ないときに全力で早歩きする。

まあ、自動ドアを通れないわけではないので、特に困ってないけど。感覚としてはガスコンロで火を出すような感覚だ。いつか腕が燃やされるのではないかと日々怯えながら使っている。まあ燃やされたことは一度もないしたぶん今後もないけど。使わない生活が考えられないから使っている。

では。

実店舗の情報量でぺちゃんこになる

どうも。

実店舗って便利ですよね。通販みたいに待たなくていいし、うっかり再配達を頼むことになったときの罪悪感もないし(最近はamazonで置き配をしてくれるようになったからちょっと気持ちが楽になったが)。外に出ることにさえ成功すれば、あとは勝手に辿り着いているし、そこで買えばその日のうちに使えるようになる。これは通販にはなかなかない魅力だろう。

ヨドバシの通販がめちゃくちゃ早い配達をしてくれたりするらしいけど、私は通販を頼むときは再配達が怖いのもあってまとめて買いがちだからそこらへんの利便性をあまり享受したことはないけど、細かいものでも通販を利用するというひとにはきっとうれしいんだろう。細かいものがひとつやふたつほしいだけならおれはコンビニに行く。実際はコンビニに行くためだけに外に出るっていうのは至難の技だから、在宅勤務でなく普通に出勤していることを活かして、帰るついでに寄る。ここについては、在宅勤務じゃなくて助かってると思う。

しかし、おれは実店舗が苦手だ。便利なのは間違いないんだが、それとこれは別の話だ。特に大型店。大型店の方が明らかに便利だ。目当ての品を探したけどここにはなかった、しょんぼり……(´・_・`)ということになりにくいから、二度手間を避ける確率が上がる。在庫を調べてから入れ?そんなことをやると思うか?とにかく、大型店はまずほとんどのものがあるだろうという安心感がある。最高にありがたい。でもそれはつまり、大量に物があるということでもある。身長よりも高い埋め尽くされた陳列棚、視界を覆い尽くす大量の商品、大音量BGM、完全に騒がしい迷路だ。迷路で遊びたかったら大型店に行けばいいと思う。看板を見ないという縛りをつければ十分に機能するはずだ。

大型店(と言いつつ、実はそんなに大きくない店でも同じ感覚になってしまうんだが)に行くと目的を忘れる。何を買おうとしていたのか、そのためには地図上のどこに向かえばいいのか、地図はどこにあるのか、入る前に用意していたことすべてが頭から抜ける。絶対に最短ルートで買い物を終えてとっとと家に帰るぞ、と意気込んで入店するのに、結局1時間くらい迷ってからやっと出てくる。とにかくいろんなものが目に入る。目に入ると気になってしまう。近くに行って手にとって眺めてみる。最近はこんな商品もあるんだなあ、これは見た目がかわいいなあ、なんてふむふむとしてから棚に戻す。右に顔を向けると、また知らない商品がある。そこに行く。そんなことをしていると当然のように迷子になる。頼りになる店員さんは大体は他の客の相手をしているか、忙しそうにせかせか歩いている。とてもじゃないが話しかけられる様子ではない。ここで自分の目的を思い出し、なんとか命からがらエスカレーターを見つけ、地図も見つけ(地図とエスカレーターは大体セットで配置されている)、目的の地へ行き、目的のものをカゴに入れる。しかし、本当にこれでいいのか?もしかして、他にも買うべきものがあるんじゃないか?そして最初に見た商品をもう一度見に行く。触る。また次のところに行く。そうやって何周もしてしまう。ほしいものは今手に持ったこれだけだし、最終的にこれしか買わないことの方が多いのに。

そうだ。店の術中にハマっていると見せかけて、おれはしっかりほしいものだけを買って帰ることが多い。しっかりしているのだ。でもそのほしいもの、たったひとつのほしいもののためにおれは店を何周もぐるぐる回る。もちろん疲れ果てる。足の裏がじんじんする。お腹も空いてくるし、頭も少し痛くなってくる。もうずいぶんと自分より背の低いものを見ていない気がする。レジのカウンター、下に降りるためのエスカレーター、たまに見かける子どもたち。それくらいか。ようやく諦めて、レジで会計を済ませて外に出る。早く帰ろう。

服屋も、家電屋も、ドラッグストアも、ショッピングモールも、本屋も、祭りの屋台の群れも、更には店ではないがでかい公園なんかも、みんなこんな調子で歩きすぎては疲れる。目的のものにすぐに辿り着いて、すぐに金を払ってすぐに外に出られるようになれたらきっと楽だろうなあ。

この中だとたぶん本屋が一番きつい。いや、全部きついんだが、今回は本屋に絞る。本屋はBGMという点では良心的なことが多い。アニメのトレイラーが流れていることはあっても、どこにいても聞こえる音量ではないこが多い。しかし、一見単調な景色だが、よく見ると大量の文字がある。他でもない自分を見つけてもらうために丹精込めて選びぬかれた題名たちが一斉にこっちを向いてくる。恐怖だ。私はすべてを買うことはできないし、すべてに目を通すこともできない。とにかくどこを向いても題名が一斉に襲ってくる。平置きしているところでは表紙も襲ってくる。幼い頃は図書館によく通っていたが、よく通えていたなと思う。正直言ってきつい。今の私に余裕がないだけなのかもしれないが。

本といえば、私の家には小さな本棚がある。実はカラーボックスだけど、本棚と呼んでいる。三段あって、そのうち二段だけ本を詰めている。本棚だぞ。といっても、この前やっと真ん中の段が横一列に埋まったくらいだ。上の段はすっからかんだ。これから入っていく。上の段がすっからかんだからかぱっと見は問題ないが、近くに行くともうすでに多く感じる。上の段まで埋まったらきっと窮屈さを感じてしまうだろう。私はきっと自分の背よりも高い本棚を家に置けない。置いたら圧死してしまうのではないか。物理で圧死させられるんじゃなくて、なんかこう、いっぺんに目に入る情報量に圧死させられるというか。なぜ家で本屋にいるような感覚にならなければならないのか。おそらくだが、見上げるというのがつらい。きっとそんなにキャパシティがないのだろうと思う。何千、何万冊も家に保管している人たちを見ると、なんと余裕にあふれた人たちなんだろうといつも感心する。あのひとたちにとっては、あれくらいがむしろ心地よいのだろう。一冊も本がない状況の方が落ち着かないのかもしれない。私は家に何千冊もあったら卒倒してそうだ。置くにしても普段立ち入らない部屋に詰めておきたい。

本棚の上の段も埋まったら、そのとき残そうと思った一部を除いてすべて中古本として売ろうと思う。まっさらな本棚を再び手に入れるのだ。私の持てる冊数の上限はあの本棚によっている。これでいいのだと思う。もうちょっと幅の狭い本棚にしてもよかったかもなあとたまに思ったりする。

これは部屋に物をあまり増やしたくないのと通じているのかもしれない。と言ってもシンプルライフやらミニマリストやらからは程遠いくらいに物にあふれているのだが、少ない方だと言われたことがあるから、少なくとも多くはないのだと思う。

しかし、苦手だからと言って嫌いなわけではない。本当に嫌いならそれこそどんなに小さな買い物でも通販を使っているだろう。結局、場に流されているだけなのだ。店内ディスプレイを決めた人たちの策略にまんまとハマっているのだ。そして、苦手なくせに長時間居座ってしまうから疲れる。本当は買い物になんて向いていないのだろうな、と思いながらまた行って迷って情報の多さに蹂躙され足の裏を痛めながら帰る。正直やめたい。遊ぶのに向いてないんだと思うし、たぶん本当は遊ぼうとしない方がいいんだろう。はしゃいで疲れて不機嫌になって一緒にいてくれている人に迷惑をかけて。最悪だ。嫌になってきた。

情報量への耐荷重が低くてつれえという話になった。でもおかげで部屋に物があふれずに済んでいるのかもしれない。じゃあ、まあいいか。物が少ない方が掃除しやすいし。

では。

初めてメカニカルキーボードを触って喜んでる記事

どうも。キーボードが急に気になりだしたので衝動買いした。周囲はHHKBなる3万円くらいする高級品を使う人々に溢れており、もはやキーボードというのは最低3万円は出さないといけないものなのではないかと苦しんだ時期もあったが、amazonを眺めているうちにすべてがどうでもよくなり、結局5,000円弱のキーボードを手に入れるに至った。これよりさらに安いキーボードもたくさんあったが、メカニカルかつ自分でも知っているくらい有名な企業のものとなるとこれが最安値だった。


買ったのはHPのGK400F。調べてみるとレビュー動画もそれなりにあり、評価も上々だった。キーボードを検索しすぎて疲れ果てていたので、これだけで十分買う理由になった。今思えば5,000円ってそれなりの金額なのではないかという気もするが、さっきまで1万円超えが当たり前の検索結果画面にいた自分にとってはえらく安く感じた。


というわけで注文し、届いた。とりあえずノートPCにさす。ちなみにBluetoothという選択肢はおれにはない。多少の入力の遅れがあろうと気になるような高速タイピングができるわけではないのだが、なんとなくキーボードは有線の方が安心できる気がしている。ちなみに上述のHHKBはBluetoothタイプのものが主流っぽいので、たぶんマジで単純におれが有線信者なだけだと思う。でも当たり前のようにWi-Fiを使っている。


なぜメカニカルに手を出したくなったのか。触ったことがなかったから。

それと、動画とか見ていると打鍵音が気持ちよさそうだったから。ぶっちゃけ打鍵音の好みでいうともうちょっとカチカチした音のほうが好きなのだが、店頭で茶軸を押した感じ、これはしばらく使っていたら指が痛くなるだろうなという気がしたのでやめた。指の耐久度に自信がないので赤軸にした。いや、これは後付で、実際はこの激安キーボードが赤軸だったから赤軸になったという方が正しい。

実はこれの半額くらいの値段で同じ会社から青軸のものが出ていたのだが、指の耐久度に不安があったのと、店頭で茶軸を押したときにすでにだいぶ打鍵音がうるさく感じたのであれ以上はキツいなと思ったため、断念した。でも動画で青軸タイピング音を聞いているとけっこう心地良いので、ただチキっただけになってしまったのかもしれない。しかし正直今こうやって押していてもそれなりの音量に感じる。これよりうるさいってやばくないか。でも見た目がタイプライター風でめちゃくちゃかっこよかった。青軸じゃなかったら買ってたと思う。


なぜUS配列か。この子がUS配列だったから。

正直、あんまり配列にこだわりはない。アルファベット以外のキーの位置なんていちいち覚えていない。おれはブラインドタッチヤクザではない。あと、タブレット用のキーボードでUS配列は触ったことがある。ちなみに当時はUSとかJISとかの配列のちがいがあるということを知らなかったので、変わった配列だなあと思いながら使っていた。

今のところエンターキーの大きさに慣れない以外は特に不便はない。これはおれがエンターキーをなぜか薬指で押しているのがよくないのだと思う。小指で押すようにすれば特に誤爆は起きないらしいことがわかりつつある。


いい加減押し心地の話をしろ。わかる。

押し心地はかなりいい。新感覚だ。底まで押さなくても反応してくれるというのはこんなにも快適なのか。もう会社のメンブレンに戻れる気がしない。いや、使うんですけど。今まで薄いキーボードと厚めのメンブレンしか使ったことがなかったので、必ず底まで打つようにしていたしそれが当たり前なのだと思っていたが、すべてが打ち壊された。底まで押す必要などなかったのだ。一気にタイピングがしやすくなった。

たぶん3万円かけたらもっと快適なんだろうが、正直これで十分満足である。というかこれ以上の快適ってなんなんだろう。何を求めるんだろう。沼につま先をつけたくらいのおれにはまだわからないのであった。強いて言うなら打鍵音の音量をもうちょっとおさえてほしい。(音量小さめのピンク軸というものがあるらしい。)ちなみに金属音への言及をたまに見かけるが、よくわからなかった。そもそもどれが金属音でどれがプラスチックの音なのかまったくわからない。


そういえばこれはゲーミングキーボードらしいので、キーボードがビカビカに光る。目が痛い。即座に説明書を読んで解除した。こういう視覚的なものについての説明となると英語より中国語の方が読みやすい気がした。漢字だからかな。まるで日本語の説明書を無視したような言い方だが、そもそも日本語の説明書がなかったので仕方ない。雰囲気で読む。


ちなみにこれは見たまんまwindows用のものだが、macにも対応している。なので、macっぽくちょっと設定をいじった。AltはCommandとして動くようにしたし、CapsLockはControlにした。あんなでかいCapsLockはいらん。検索してるとなにやらよくわからんソフトを入れる必要があるとか出たりするが、おれがやりたいことは環境設定だけで達成されたので、入れずに済んだ。


まあとにかく満足です。興味を持ったらこれに限らず手を出してみたらいいと思う。予算を1万円くらいに設定すればもっと幅が広がります。どこからどう見ても立派な沼なので気をつけてくれ。たしかにいっそ3万円どかんと使って「大正解」を手に入れて、沼に入らないようにするのはひとつのうまい処世術なのかも知れんと思った。そういえばHHKBはメカニカルだと思ってたんだがそうではなく静電容量無接点方式というやつらしかった。よくわからないけどすごそう。では。

筋トレと読書って似てる気がするんだけど、なぜ筋トレは気楽で読書は悲しいんだろう(2)

ところが、読書は現実逃避になってくれない。常に、既にこの本を読んだことがあるひとや、この分野について自分よりずっと詳しいひとの影がちらつく。勉強もタスクも同じだ。今こんな低いレベルのものやってていいのかな、情けないな、前から努力してこなかったからサボってきたからこんなことになってるんだ自業自得だ、でも情けなくてつらいなあ。だいたいずっとこんな感じで進む。ずっとみじめ。別に、今ようやっと手を出したからって「今更だね」なんて言ってくるひとは(幸いなことに)まわりにいないのに、どうしても比べてしまう。

しかも本を読むのも妙に遅いもんだし、遅いからって焦って他のことと並行して進めようとすると結局どっちもなんにも進まないまま終わるし、もうどうしようもない。おれはもうあのひとたちに追いつけない。ずっと取り残されている。でも、じゃあ待ってもらったら満足なのかと言ったらそんなことはない。おれにかまわずどんどん進んでほしい。おれのことは、欲を言えばたまに振り返って、変な方向に進んでないか見てほしいけど、それ以外はむしろ無視してほしい。おれにかまってるせいで向こうが進むのが遅くなったら本当に申し訳ない。

で、「あのひとたち」とは誰だ。よくわからん。たぶんいろんなひとの印象が頭の中でごちゃごちゃになった結果生まれた集合体のことだと思う。これはAさんが読んだことがある本、Bさんが読んでた本、Cさんが既に読んでた本、とかなんかいろいろあって、「あのひとたち」とか「みんな」とかいう、それらすべての本を読み終わった集合体ができあがる。おれはそれに対して毎日震え上がっている。

たぶん勉強もそんなもんだと思う。分析哲学に詳しいDさん、音韻学に詳しいEさん、圏論に詳しいFさん、とかいろいろいる。それらがごちゃっとまとまって「みんな」とかになる。でも実際、なにかひとつに詳しいひとって他の分野の素養もそれなりにあったりするもんだからすごいよな。おれむりだ。

でもなぜこれが筋トレでは起こらないんだろう。これが不思議だ。筋トレだっておれよりがんばってるひとは大量にいる。一緒にやろうなんて動画出してるひとたちはみんなおれよりずっとすごい。なんでだろう。仮の答えを思いつかないまま書き始めて、書いてるうちにひらめくだろうと思ってたけど結局なんにもひらめかなかった。

強いていうなら向上心の問題かもしれない。おれは読書したり勉強したりして、もっと上にいきたい。(「上」ってなんだろう。)筋トレではそんなものはない。比べるものではないからだ。筋力や体力はひとそれぞれだ友人のGさんが昨日プッシュアップ100回やったからじゃあおれも張り切って100回やるぞ!とはならない。どう考えても無理だからだ。ちなみにこの前数えてないけどたぶん40回くらいやったところ無事に筋肉痛になりました。初心者らしく膝を床につけて。

そう、筋トレ続けられるようになったのは「数えなくてもいい」とわかったからという気もする。「この動画の時間は動いていよう」というだけで、あとはがんばって動くだけ。何回やったかはまったくわからない。これがよかったのかもしれない。前に買ったプリズナートレーニングは結局続かなかったけど、あれは数を数えるのが無理だったからじゃないか。でも書いてある心得はかなりためになったし買ってよかったと思ってる。

数を数えるということは、目標を生むことになる。これが合わなかったのかもしれない。「50回やろうって思ったのにバテてしまった、悲しい」が積み重なる。いや、目標を下げろよという話なんだが。でも回数より時間で区切った方がおれにはやりやすかった。これはおれが数えるのが下手なのが原因だと思うから無視してほしいんだが。きつくなったら残り時間は動きを小さめにやったりゆっくりやったり体勢を変えたりしてもいい、というのが合っていたみたいだ。やってみよう動画の中には数を数えないものがけっこうある。おかげで気楽に取り組めるようになったと思う。数えないということは、報告しにくいってことになるんだけど、これはどうしたらいいんだろうな。まあいいか。

これでいくと、読書のときも数えなかったらいいのかな。と思ったが、そもそも数えていないぞ。本を読むときに「今何ページ進んだな」とか覚えていない。読み始めたページすら忘れる。おい筋トレと同じじゃねえか、なんでこっちではこんなに悲しくなるんだ。

比較対象が身近にいるかどうかか?たしかにおれのまわりには本をよく読んだりよく勉強していたりするひとが多い。でも、筋トレしてたり運動してたりするひとも多い。運動系のサークルに入っていたから当然だろう。Twitterを開けばだいたい誰かが何kmか走っているし山に登っている。うーん、身近に比較対象がいるかは関係なさそうだ。

じゃあなんやねん!わけわかんなすぎてキレそう!筋トレの何がセーフで読書の何がアウトなんだ!

もしかしたら「いけそう」感が関係してるのかもしれない。ゆーてがんばったらおれもあの境地に達せるやろ、みたいな。がんばれば届くかもしれないところに届いていないからつらいのかもしれない。筋トレのトレーナーたちとかどう見ても無理だもんな。そこまでの気力がないことはよくわかっている。でも勉強はちがう。時間をかけただけどんどん上に上がっていけることは学生時代に実感している。だから、つまり、今そこに立てていないのはおれが怠けてきたからだ。

筋トレももしおれと同じくらいのメニューから始めておれより先にもっときつそうなメニューに進んだひとがいたらムキになり始めるかもしれない。比較しては悲しくなるかも。つらいのを我慢してもっとたくさん取り組んでたらおれも今あそこに進めてたのかなあ、みたいな。もしかしたらそうなのかもしれない。もうこれ以上書いててもなんも思いつかなさそうだから、これを仮の結論として終わりにしよう。

結局比較がしんどいという話になってしまった。気を抜くと比較しがちだから、なんとか比較したくなるのをおさえていくしかない。

そういえば比較するのって本能レベルの話らしいですね。比較する方が人間として自然らしいです。なんてこったい。

「比較しないようにしましょう!」と言ってくる本は多々あれど、んなもん知っとるわ!じゃあどうしたらいいんだ!への返答についてはいまいちピンとこないものが多い。自分なりのやり過ごし方を探すしかないんだろう。探していこうな。

筋トレと読書って似てる気がするんだけど、なぜ筋トレは気楽で読書は悲しいんだろう(1)

筋トレや運動は意外に気が楽なことに気がついた。もちろん、家でひとりでやるときに限るが。

まず、やってるときはかなり無になれる。気がつくと終わってる。いや、やってるときに一応「しんどいなー」とか「ここ、もうちょっとこういう風に動かした方がいいのかな」とかは思っているけど、それ以外のこと、要するに筋トレや運動以外のことは頭からなくなっている。「あのタスクずっと先延ばしにしてるな…」とか「あの本、買ったけど全然読み進めてないな…」とか、そういうのが動いている最中は頭からきれいさっぱりなくなる。こりゃあいい。最高の現実逃避方法だ。身体に余裕がなくなると思考もそれ以外考えられなくなるらしい。

しかも、ライバルというか比較対象がいない。目を向ける対象は動画の向こうにいる、なんかすごくてもはや別世界のひとたちだけだ。彼らはすごい。おそらく何年もトレーニングや食事制限などに取り組んでいる。肉体も精神もまったくちがう。

彼らに対してうらやましさを抱くことはあんまりない。おれにそこまでの気力や根性がないことは既にわかっているからだ。おれは身体を仕上げるためにあんなに一生懸命にはできない。食事制限のために献立を考えたり買い物をしたりするのはめんどくさくて無理だ。ジムに通うのもやる気が起きない。金だけ払って行かなくなる未来しか見えない。

動画のコメント欄に「○ヶ月続けて○キロ痩せたよ」「ウエストが○センチ細くなったよ」といったコメントが寄せられていることがよくある。たしかにうらやましいが、体重が減る前・細くなる前の数値を書かずに減ったぶんだけ書かれても何もわからない。

理屈はよくわからないが、たとえば身長160cmで体重が55kgのひとと80kgのひとがいたら、80kgのひとの方が体重は減りやすい。55kgのひとにとっての1kgと、80kgのひとにとっての5kgはたぶん同じようなものなのである。数値、めっちゃ適当に書いちゃった。要するにもともとの数値を書かずに減っただのなんだの書いてるコメントは無視に値する。少なくとも自分と比べるものではない。続けてたらちゃんと減るんだな〜、くらい。

いや、別にそこまで痩せる目的のためにやってるわけじゃないけど。どっちかというと最初に書いた現実逃避の方がでかい。たしかに贅肉は大量にあるが、不健康なほどではないから、そんなに気にしなくていいのではないかと思っている。痩せる目的のためにやったら絶対に続かないと思う。痩せた自分が想像できないし、そもそも痩せたことを実感するために毎日メジャーでウエストを測ったり体重計に乗ったり自撮りをしたりするのがめんどくさい。

いやちがう、痩せてるかどうかってことについてのライバルじゃない。何を書いているんだ。やるメニューやら体力やらの話だ。

自分の体力や筋力と相談しながらやることになるから、最初は「初心者向け」という風に書かれたものをメインにやることになる。既に筋力があるのなら上級者向けみたいなしんどそうなトレーニングをやればいい。

たとえばプランクとか、あれって最初は膝を床につけてやった方が絶対にいい。たとえ膝をつけずに脚をまっすぐ伸ばしてやる方が負荷が大きくて効果が高いと言っても、自分のレベルが足りていない状態でやれば関節痛などを招きかねない。

要するに筋トレとか運動とかでは無理をしにくい。身体にあらかじめストッパーが用意されているらしいので、徹底的に身体を壊すほどまで動けること自体がそもそもほとんどない。(がんばればこの最初からついてるストッパーを取ることができるらしいけど、どう考えても危ないし、運動選手でもなけりゃそのままにしとくのがいいだろう。)

しかも、自分のレベルと他人のレベルを比べて落ち込むことがほぼない。いや、競争意識の高いひとはもしかしたら落ち込むのかもしれないが。自分ができる範囲がこれだけなのだから、このできる範囲で続けていけばいいのである。その日に高い負荷のメニューをいくらこなしたかより、どれだけ長い期間続けることができたかの方がものをいうのである。いくら簡単なメニューでも、自分にとって効いてる感じがあったら、自分にとってはそれで十分なわけだ。たとえばおれは本当に腹筋がないので、仰向けに丸まって揺れてるだけでもけっこうくるものがある。まさかこんなに他人を気にしないで済むものがあったとは。

まあこれは一人暮らしの特権な気はするが。口を出してくる同居人がいたらすぐさまやめていただろう。まあ、隠れてやるけど。

ところで、筋トレをやるようになって思ったのだが、なぜこの気楽さを読書や勉強やタスク消化なんかに活かせないんだろう。(この疑問が湧いたのがこれを書き始めた理由だ。おかしいな。さっきまで何を書いてたんだろう。)

筋トレと読書は似ているはずだ。どっちも自分の今の能力と相談して進めていく。そりゃあ読解力があれば最初から何かの分野の難しい本を読んでもなんとかなるだろうが、少なくともおれは読むときにリズミカルさがほしいので最初はその分野の入門書から入る必要がある。悲しいほど短気なのである。やる気が起きたときはじっくり読むしかない本をじっくり読むけど、そんなことは稀だ。日頃の社会人生活で疲れている身にそれはきつい。(これはたぶん言い訳。)あと、難しい本ってけっこう遠慮なく専門用語を使ってきたり(解説を入れてくれるにしてもかなりあっさりした解説)するので、やっぱり入門書を一冊は読んどくのがいいんじゃないかと思ってる。

今のでお察しだろうがおれは勉強や研究に向いてない。勉強というのは概して知識や手法とじっくり向き合うことだからだ。なんで学生のときはやれてたか?おれもわからない。やったらやったぶんだけちゃんと成果がでたからとかかな。筋トレと同じじゃん…いや、他にやることがなかったからかもしれない。勉強してたらそれだけで胸を張れたし。学生(少なくとも高校までは)はとりあえず勉強しとけばでかい顔ができる。いや、もう全然思い出せないけど…

だからほんとは数学とか気になってるんだけど結局全然わからないままだ。立ち止まるのが下手なのである。なんかこう、一週間ずっと数学だけやってろという部屋にぶちこまれたい。でもずっとはきついから1時間ごとに実況動画見させてほしいな。

「いけそう」感が大事な気はする。なんやかんや学校の勉強は段階的に進むようにうまく組まれていて、新しく見るものは前に見たことのあるものを念頭に置きながらながら理解していくことになるから、初見であろうとなんとなくいけそうな感じがする。今思うとカリキュラムってよくできてる。


さすがに長くなったので別の投稿にします。

食欲はあるけど食べるために動くのはめんどくさい

食欲はあるけど、ごはんを食べるために動くのがめんどくさい。でも食べないと心身ともにイカれる。一度やってしまったことがあるからわかる。人間は何か食べないとだめなのである。

どこに行けばいいんだ。何を食べればいいんだ。今日も家でお腹をすかせながら床の上をごろごろしている。徒歩5分もかからないはずのコンビニでさえ行くのがめんどくさい。そもそもこのストレッチの効いた動きやすい部屋着から別の服に着替えたくない。

さっき、マクドナルドを調べた。知らない間にウェブサイトがかなり凝ったものになっていた。栄養バランスチェックとか、使っている食材が客の口に運ばれるまでにどんな道のりを辿ってきたのかとかが載っている。かわいそうに、不健康食の象徴みたいな扱いされてきてたもんなあ。がんばってるんだな。応援したい。でも、近くにあったっけ。なかった気がする。

やばい、もう12:30だ。書いてる場合じゃないぞ。動け。思えばメニューを決めていればこんなことにはならないのかもしれない。朝ごはんは毎朝こんなうだうだせずに食べられるけど、あれはたぶんメニューが決まっているからだ。昨晩炊いたごはん、昨晩つくった味噌汁、冷蔵庫にある納豆1パック。仕事がある日の夜も、昨日の残りがあればごはんを炊いて味噌汁をつくってから残り物をあたためて食べ、なければ家にあるもので何かつくると決まっているから、動ける。休日が一番困る。何も決まっていない。食材はなくなるから買いに行かないといけないし。休日のお昼のメニューも決めてしまえばいいのかもしれない。何がいいだろうか。近所のパン屋に買いに行くか。毎週末来る変な客だと思われたりしないだろうか。怖いな。でもパン屋っていっぱいパンの種類があるんだよな。迷うんだよな。お昼限定「今日はこれを食え」コーナーとかつくってくれないかな。

やっぱり炊飯器は買わない方がいいかもしれない。鍋で炊いていると、油断すると吹きこぼれるため、台所から離れるのが怖い。なので味噌汁用のたまねぎと豆腐を切ったり、肉と切った野菜を炒めたりしている。炊飯器にしたら、ボタンを押した瞬間座り込んで、そのまま炊き上がるまで何もしなくなってしまいそうだ。

冷蔵庫に食材は実はある。つくろうと思えばつくれる。なんならツナ缶もあるからツナマヨにして食べることもできる。乾燥パスタもそういえばある。レンチンでつくれるな。でも前ツナマヨとごはんだけ食べて済ませてたら15:00か16:00くらいにガス欠を起こして大変だったんだよな。もっとたくさん食べないといけない。

パスタ、いいかもしれない。でも今度は何のパスタにするかで迷い始めてしまう。終わった。もうだめだ。とりあえず今日はがんばってスーパーに向かおう。来週ぶんの食材を買い溜めるのだ。行くぞ。