地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

人工知能はどこからひとりとして扱われるんだろうか

小説「電気じかけのクジラは歌う」(逸木裕)を読んでからというもの、人工知能による創作、人工知能はどこからひとりとして扱われるんだろうということがたまに気になっている。「人工知能による創作」っていう言い方が、もうすでに人工知能をひとりの作者として扱っている。

テーマを入力したらそれっぽい画像をつくってくれるサービスからつくられた画像を共有するツイートをちょくちょく見かけた。あれを使っているひとたちは、基本的にあのサービスそのものをひとりの作者として見ているように感じる。

しかし、人工知能を作者として扱う必要はそもそもあるのか。人工、というのだし、あくまでイラストソフトと同じ扱いでもいいのではないか。つまり、人間がなにかをつくるための補助をする道具という扱いだ。あの画像サービスに背景をかかせて、メイン部分を自分でかいている絵師さんを見かけて、すくなくとも私はけっこうしっくりきた。今も漫画の背景は3Dに任せることだってあるのだし、あれと似たようなものではないだろうか。まあ、3Dとちがってアングルをこちらから指定することはおそらくできないんだが。案のひとつとして使うとかよさそう。

この、人工知能を作者として扱うかどうかの基準がよくわかっていない。

人工の歌声であるVOCALOIDとかCeVIOとかは表記的にひとりの歌手として扱われることが多いと思うけど、じゃあ生の歌手を食い尽くすことが危惧されているかというとたぶんまったく危惧されていない。これは、たぶん、表面上はひとりの歌手として扱っているけど、あくまでソフトであるという理解が前提になっている気がする。

チェスのなんかすげー強いやつ(名前なんだっけか)はひとりのプレイヤーとして扱われていたと思う。まぁがっつり対戦相手として対峙するしな。しかし、ゲームって決められたルールの中でどれだけうまいこと動くかがそのまま勝敗につながるから、TRPGみたいな突発的に想定外の動きが出てきうるようなものでなければ、ルールの中で想定される場面ごとに一番いい動きができるように特化した人工プレイヤーがつよいのは、そりゃそうなんじゃないかって感じがする。だからだろうか、これも歌声と同じく、生の選手を食い散らかす未来は想定されていないと思う。

映画「イヴの時間」では農作物をつくるロボットの広告が出てくる。あれはロボットだけでつくられた農作物はいやだねみたいな広告内容だったので、きっとロボットをひとりの作者(農家)として扱っている。

ゲーム「Detroit: Become Human」で操作可能キャラの一人がキャンパスや壁になにか描いたりするけど、あれはがっつりアンドロイドをひとりの作者として見ていると思う。まあ最終的にアンドロイドの人権?問題になるしな。

おい、いつの間にか「人工知能」が「ロボット」とか「アンドロイド」とかに置き換わっているぞ。わかる。上に挙げたロボットたちはたぶん人工知能と呼ぶにふさわしい機能が入っているだろうから、大体同じもんを言っているんだと思って流してほしい。

いや、でも、全自動農作ロボットってどうなんだろう。作物ごとに空調とか水やりとかを一定にすれば必ず狙った結果になるのなら、いわゆる人工知能というほどの機能はなくても、設備さえあればいけそうな気がする。でも人間の農家から嫌われていた。すくなくとも広告では。

人間の仕事を食い散らかすかどうかが基準なのだろうか。

たしかに、人工歌手(って呼んでいいのか?)たちは少なくとも今のところはやっぱり機械くささが抜けないし、生の人間の歌とはあくまで別ジャンルのものとして地位を確立している。人間っぽい歌い方をさせても「人間っぽい」みたいな感想が出るだけのイメージがある。

ちなみに私はあの機械くささはとても好きだ。ループさせて聞くなら生の人間が歌っている曲よりも人工歌手の声のほうが疲れない気がしている。たぶんなにがしかの情報が抜けているのだろう。なんなのかわからないが。

農作物は消費する側に上限がある(生産するための場所も限りがある)から、人工農家が効率的に安定して生産できるなら人間の農家の仕事を食い潰しかねなさそう。

作曲というか音楽関係については、小説「電気じかけのクジラは歌う」では人工作曲家(とは作中では呼んでいない、と記憶している、今私が勝手にそう呼んでいるだけだ、注意されたし)は手間もお金もかからずにいい感じの曲をつくってくれるからってことで人間の作曲家がゴリゴリに潰されていっていたけど、絵画はどうなるんだろう。

絵画に歌声のような「機械っぽさ」はあらわれにくい。というかわからないんじゃないか。ぶっちゃけバランスが崩れてたら「パースの練習しなさい」とかになりそうだし。ぶっちゃけ、デッサン的な正確さを求めるなら、正確なバランスの3Dモデルをうまいこと配置して、狙った視点から切り取ったものが一番だろう。ということは、すくなくともそういう、正確さを求める仕事は食い潰されるかもしれない。

でも、3Dモデルをつくるのは現実のものならスキャナーがもうあるけど、うまく配置するのはたぶんいつまでも人間の仕事だ。実はすでにうまいこと配置してくれる人工モデラー(?)がいるのかもしれないけど、私はまだ知らない。いたらどうしよう。想像力の貧弱さをわらわれてしまうか。いや、それでいい。現実の実現力でぶん殴ってくれ。待ってる。

話を戻せ。絵だ、絵。いい感じの絵を提供してくれる人工知能はひとりの画家として扱われるか。

著作権の問題になるのだろうか。そういえば小説「電気じかけのクジラは歌う」ではどうなってたんだろう。Jingがつくった曲はどこが著作権を持つんだろう。素直に考えたらそれをつくらせたひととか組織になるんだろうけど。いや、それしかないな。やっぱ著作権はそこまで重要じゃないな。なしなし。

わからん。ここまでうだうだ書いてなにも決まらなかった。もともと人間が手作業でやっていたことが全自動になったらひとりとして扱われる、みたいな感じってことでいいか? でもそれだけだとRPAも入っちゃわないか? 困ったな。

ひとが集まってつくっていたものがひとつの手にまとめられるのは、本当はいろんなひとが関わっているのにそのうちのひとりだけがヒーローになってすべてを担うやつを連想する。人間ひとりができることは限られているのにな。おれはトイレがなぜレバーを動かしたら水が流れてくれるのか知らないけど、でもトイレは使える。ちなみにこれは「知ってるつもり 無知の科学」(スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック)からのはずです。おもしろい本です。

漫画や小説だって、著作者の後ろには編集者とか校正者とか、直接の役割名がなくても謝辞にちょろっと名前が出てくるひととか、いろんなひとが関わっている。昔から名のある芸術作品も、最終的に作者の名前ばかり広まるけど、芸術家が孤独に殻に閉じこもってうんうん唸って作品を生み出すというのは稀で、むしろ創造のためのパートナー的な存在がいることが多いみたいな話も見た。つまりイカした芸術作品は、手を動かしたのはひとりかもしれんが裏に他者との共同作業が隠れているってことだ。アイデアの壁打ちなんかこれに近いんじゃないか。これは「創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで」(松本卓也)に書いてあった気がする。おもしろい本です。

いや、そもそも、疑問がわかりにくいのか? どこからひとりとして扱われるのかっていうよりも、どこから道具として見られなくなるのかと尋ねたほうがわかりやすい気がしてきた。

道具はどこから道具じゃなくなるのだろう。うわっ長くなりそうだ、やめだやめ。だれか考えてくれ。私は今度気が向いたら考える。では。