地底電波塔

気が向いたときに勢いにまかせて何かを書き連ねるブログ

自分の行動をすべて理想通りにすることはおそらく不可能で、それとうまく付き合わなければならないのだろう

16/31。

昨日で実質退職ですがまだ保険証の効力はあるので病院行ってきました。あと制服をクリーニングに出しました。がんばったぞ。


ブログを書くことは自分について考える時間を作ることと同義なんじゃないかと思うようになりつつあります。露悪タイムになるのかもしれません。わたしは汚いわたしをただただ暴露し続ける。それはただの自己満足でしかないんです。なぜ公開するのか。非公開で自分のためだけのものとして扱えばいいのではないか。なぜか公開したい。なぜでしょうか。共感でもしてほしいのでしょうか。それとも慰めてほしいのでしょうか。どちらにせよ、嫌ですね。わたしにとっては嫌です。


わたしはひどい人間なので、混乱しているひとに対して問答無用で「この前○○してたらまだなんとかなったかもなあ」とか「○○したらいいんじゃない?」とか、もう既にどうしようもない過去について語ったり解決策を出したりしてしまいます。「ひどい人間なので」というのはおかしくて、結局わたしがその行動を選んでいるだけの話ですね。わたしは可能な限りそれをやめたい。しかし、そういう場面になったときは大抵自分も動揺していることが多いので、うまくコントロールできた試しはありません。完全に害悪です。これからどうするか、のほうが大事なのに、過去のことなんて出したところでそんなものは仮定でしかありません。過去の仮定ほど虚しいものはないのではないでしょうか。


きっとわたしはよい教育者にはなれないのだろうと思います。もちろん余裕があるときは「どうしたらいいと思う?」と訊くようにしているのですが、余裕がなくなるともうどうしようもありません。人間は常に余裕のままではいられません。また、そもそも考えるための知識とか情報とかそういう下地がない状態で考えさせても堂々巡りになります。それもそれでよくないかと思います。的確にヒントを与え、考えさせる。でも自分の考えを押し付けることはせず、本人が納得するところまでいけたらそれでよしとする。おそらくそれが理想なのではないかと思います。


今、モンテーニュのエセーの超訳本を読んでみているのですが、とんでもなく悟っていますねこのひと。わたしもこんな風になりたいです。しかし、まだ序盤なのでただの連想になりますが、どんな自分も自分なのだと受け入れても、改善しようとしないのは違うんじゃないかとは思います。どう見ても害だと認定される行動もあります。それは変えるべきなのではないでしょうか。わたしは可能な限り改善していきたい。自分が納得できるところまではいきたいです。少しでも自分を好きになりたい。これはおそらく、周囲を気にしている状態なのでしょう。わたしはまだそこから脱することはできないようです。